朗読にせよ音楽にせよ、なにか表現をしようとするとき、私たちは瞬時に「たくらみ」に満ちた存在になってしまう。
後天的に(大脳皮質=意識の部分で)身につけてきたさまざまな思いこみや価値基準によって、「こうしなければ」とか「こうしてはならない」といった意図のかたまりとなって、表現は不自然なものとなる。
自然にその人自身のままで、たくらまずに表現するには、思考を捨て、自分の身体に任せていく方法が有効だ。
身体というのは、首から下という意味ではない。
フロイトが発見したように、人は意識的な部分と無意識の部分を自我のなかに持っている。
さらには超自我という意識構造もある。
自分を自分たらしめているのは、まさにこの無意識の部分だといえる。
自分がなにをかんがえ、なにを感じているのかわからない部分。
自分がどうしたいのか意識的にはわからない部分。
本能や身体といった人の「自然」がその人の本当の欲求や行動を示している部分。
この無意識と身体が、その人のオリジナリティであるといえる。
本当の意味でオリジナリティのある表現をおこなうなら、自分がどう表現したいのか「思考」ではなく、身体に聞いてみるしかない。
それはまったくたよりなく、手がかりの少ない世界だが、自分の身体が動こうとしているその部分に深く集中していけばいくほど、私たち自身の生命力あふれたオリジナルな表現が表出してくる。
これを私が学んでいる韓氏意拳の世界では「体認」というのだが、現代朗読においてもおなじ言葉を使わせてもらうことにしている。
「体認」をつかんで離さない朗読表現。
これがその人のオリジナリティと表現クオリティを確保していく。
※以上のようなことを、先日おこなった「現代朗読基礎コース 第7回」のなかでレクチャーしている様子を抜粋してYouTube番組「あいぶんこ朗読ポッド」で配信中。そちらも合わせてご覧いただきたい。