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夏の思い出
水城ゆう
ほかにはだれもいない高校の屋外プールには、暖かい雨が降りそそぎ、水面には無数の波紋が広がっている。
ぼくらは首から上だけを水の上に浮かべ、水中で手足を触れあわせながら向かいあっていた。
「時給っていくらなの?」
「六百五十円」
「まあまあだね」
「でも二時間だからね」
話すと声が奇妙な具合に水面を伝わり、プールのへりにぶつかってもどってくる感じがあった。屋外なのに、閉じられた部屋のなかにいるような親密さ。
「勉強する時間はあるわよね」
彼女は先に京都の会社に就職して、ぼくが京都の大学に進学するのを待っている。そういう青臭い段取りになっていた。
「まあね」
手をのばすと、水着に包まれた彼女の胸に指先が触れた。
「いつ戻るんだっけ?」
「お盆休みは明後日まで。って、いわなかったっけ? 午後の雷鳥で戻る」
「そっか」
雨は当然、水のなかまではとどかず、ぼくらの髪と顔を濡らしている。
「大学に行ったら、もうすこし稼げるバイトしたいな」
「どんなの?」
「わかんないけど……プールの監視よりは稼げるやつ」
「稼いでどうするの?」
「そうだな、旅行に行きたいな。海外とか」
「いいね。いっしょに行こうよ」
「うん。来年の夏までぼくたち付き合ってればね」
「どういうこと?」
「もうすぐ別れちゃうんだよ、ぼくたち」
なぜそんなことをいったのか、自分でもわからない。しかし、それは事実なのだと、ぼくにはわかっていた。
「どうしてそんなことをいうの?」
「ほんとうのことだから。ぼくたち、長く付き合わないんだよ。来年はぼくは京都の大学に合格するけど、きみは仕事をやめてこっちに帰ってきちゃうんだ。夏はぼくは京都の中華料理屋で深夜のバイトをする。その前にガソリンスタンドのバイトもちょっとやるかな。でも、深夜のバイトのほうが稼げるからそっちをやる。で、けっこう稼ぐんだけど、旅行には行かない。深夜のバイトをやめたあと、教材の配達のバイトをやるんだ。ほら、運転免許があるからね」
自動車教習所にちょうどいま、通っているところだった。
「でも、これも長続きしない。バイト仲間から祇園のジャズバーのバーテンダーの仕事を紹介されるから。その仕事をぼくは三年くらいやる。筋《すじ》がよくて、マスターから本職にならないかと真剣にくどかれる。けど、ぼくはピアノ弾きになるんだ。ジャズバーに出入りしていたバンドマンの生活が魅力的でね。二年くらいやるんだけど、カラオケブームが来て仕事がなくなっちゃうんだ」
「カラオケってなに?」
そうか、まだこの時代にはカラオケというものは存在しないんだった。彼女が知らないのも無理はない。
「仕事がなくなっちゃったぼくはしかたがないから、小説を書いたりする。結局はこっちにもどってきてピアノの先生なんかやるんだけど、書いた小説が出版社の目にとまって、職業小説家になるんだな。十年くらいやるんじゃないかな。そのあとは出版もうまくいかなくなって、自分で会社を起こしたり、ネットコンテンツの仕事をしたり、自分でもうまく説明できないような感じになっていく。そのあとのことはよくわからないな。自分でもどうなるかさっぱりわからない……」
気がつくとぼくはひとりで話している。話していたはずの彼女はどこにもいない。そしてここは学校のプールでもない。海のまっただ中だった。
空には雲が低くたれこめていて、見上げると雨つぶが私を押しつぶすかのように重く降りしきってくる。
ここはどこなんだ。いつなんだ。彼女はどこに行ったんだ。ぼくが話していたのはなんなんだ。未来なのか、記憶なのか。
なにも思いだせない。
ぐるっと見回しても、陸地はどこにも見えない。
私はいったいどうしてこんなところに……?