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南へ
水城ゆう
夕暮れになってバッテリーがこころもとなくなった。速力を半分に落とし、抵抗を減らす。とたんにボートがかきわける水音が消え、静寂が強調される。
とはいえなにも音がないわけではない。先ほどの夕立(スコール)の名残りを葉にためている木々から、絶え間ない水滴が水面に落ちている。姿は見えないが、ときおりサギの鳴き声が森の奥から聞こえる。
ヒロハシサギだな、とフルヤは反射的に判断する。中米を生息地とする鳥がここにいる理由は別として。
しかし、彼の専門はヒルギなどに着生する熱帯ランの植生だ。
すでに汽水域だが、このあたりはまだ塩分濃度が低い。さらに南へくだり塩分濃度が高まると、呼吸が重くなるように感じる。
フルヤは暮れはじめた空を見あげて思う。もうひと雨来そうだ。西の空はピンクに近い紫に染められている。手前にスカイツリーが湿度のなかにくすんで黒々と浮かびあがっている。
今夜はこのままどこかに係留し、明日も調査を続行する。ちょうどこのあたり、かつての江戸川の真上で、市川の高層マンション群が東にある。水位は四階あたりまであるが、着艇して上層階に行ければ湿った衣類を乾かすことができるだろう。
あたりをつけてマンションのひとつに船首を向けた。おそらく京葉道路かなにか、苗床にしてヒルギが長々とマングローブ帯を作っている。海面上昇前は石垣島以南にしか生育しなかったニッパヤシも、帯状のところどころで林になっているのが見える。
マングローブの脇をゆっくりと進めると、ヒルギモドキの枝のいくつかからフウランの一種が白い花をつけて垂れさがっているのが確認できた。花穂のシルエットがあまり見慣れたものではない。新種かもしれない。明朝確認しようと、フルヤは位置を頭に刻みこんだ。
マンション北側の非常階段に調査用のゴムボートを横着けした。手を伸ばせばちょうど五階部分の階段の手すりに届く。が、金属もコンクリートもボロボロに腐食していて、ボートを係留するには危険だ。もやい綱をにぎって、ひょいと手すりのすきまから踊り場に立った。奥のほうにもうすこししっかりともやい綱を固定できるなにかがあるだろう。
踊り場から振りかえると、半分水没して夕闇に溶けこみかけているトーキョーのシルエットがあった。ヒロハシサギが一羽、大きな嘴を突きだし、ゆっくりと水面を渡っていくのが見える。
明日はもっと南へ、フルヤの脳裏をそんなことばがよぎる。