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かそけき虫の音に耳をすます
水城ゆう
窓枠にびっしりとならんだちいさなちいさなカマキリのミニチュア。
彼女は制服を着たまま、授業を抜けだして、墓地にしのびこむ。空《そら》が広くて、気持ちが晴ればれする。そしてときにはおもしろいものを見つける。
カマキリの卵が産みつけられたススキの茎を部屋に持ちかえったのは、中学が春休みにはいる前だ。期末試験は終わっていたけれど、授業はまだあった。英語の袴田《はかまだ》先生のぬるっと光っているように見える顔がどうしても気持ち悪くて、その日も授業がはじまる前に抜けだした。
いまは夏がちかづいている。欠席が多く、成績も悪かったけれど、三年生になれた。
自分の部屋の勉強机の奥のほうに、ジャムの空き瓶にさしておいたら、昨日、二匹孵化しているのを見つけた。出窓のところに移して、今日、数えきれないほどのミニチュアのカマキリが孵化した。
日曜日でよかった。
たぶん百匹以上。ひょっとして二百匹。こうなることはわかっていた。
見たかったんだ。
カマキリの卵がくっついたススキの茎を、親は一度もとがめなかった。見もしなかった。そこにそんなものがあることに気づかなかったのかもしれない。気づいたとしても、それが卵鞘《らんしょう》と呼ばれるカマキリの卵のかたまりであることは知らないだろう。
今日は出てくる瞬間をしっかりと観察できた。カマキリの幼虫は最初からカマキリの形をしていてかわいいってだれかから聞いていたけど、あれは嘘だ。カマキリの幼虫は最初からカマキリの形はしていない。最初はちいさな芋虫みたいな、細長い形をしている。調べたら前幼虫というらしい。それが外に出てきてしばらくすると脱皮する。そうすると小さなカマキリがあらわれる。でも、正確にいうと、成虫のカマキリとはちがう。なにより羽がない。
羽のないミニチュアのカマキリ。
かわいい。
開け放った出窓に、びっしりと幼虫がぶらさがった卵鞘を置いたら、みんな脱皮してから明るいほうにすこしずつ移動していく。机の上に取り残されていた先に産まれた幼虫も、紙ですくって窓枠に移動させた。
ぞろぞろ、ぞろぞろ。のろまな行進。
このうちの何匹がちゃんと大人になれるんだろうか。
出窓の端にはもうひとつ、ちいさなコップにさした木の枝が置いてある。こちらのことは親も知っている。
「クロアゲハの蛹《さなぎ》だよ」
教えてある。
「そうなの。ここからアゲハ蝶が出てくるのね」
母がいう。
「かもしれない」
「かもしれないって?」
「蝶じゃないのが出てくるかもしれない」
「蝶の蛹なのに?」
「うん。蝶の蛹に寄生する蜂がいるんだ。蛹になる前の蝶の幼虫に卵が産みつけられるの。それが蛹のなかで孵化して、蝶の蛹を食べながら成長して、蜂になって出てくる」
「蝶はどうなるの?」
「もちろん死んじゃうよ」
「気持ち悪い」
親はひどく顔をしかめる。
そうかな。気持ち悪いかな。蜂だって生まれるのに必死だ。そうやって何万年も、何百万年も命をつないできたから、アゲハヒメバチも種をたやさずに生きているんだ。
でも、まだわからない。この蛹から出てくるのがアゲハヒメバチなのかクロアゲハなのか。
蝶の蛹の横をカマキリの幼虫たちが窓の外にむかってのろまな行進をつづけている。
がんばれ、みんな。
外はみんなにとってけっして生きやすい世界ではないだろう、と思う。外の世界が暴力的で、危険に満ちていて、彼らのうちほんの数匹しか……いや、ひょっとしたら一匹も生きのこれないかもしれないということを、彼らはまだ知らない。なにも知らずに、ただ窓の外の明るい空の下へと出ていこうとしている。
もうすぐきっとお腹がすきはじめる。なにか食べなければ。彼らは一匹一匹、それぞれ獲物をさがさなくてはならない。彼らが食べることのできるちいさな虫を見つけ、それをつかまえて食べなければ、たぶん数日とたたないうちに死んでしまうだろう。もし運よく自分よりちいさな虫をみつけて、つかまえて食べることができたとしても、そのあともそれをくりかえせなければ、その時点でやはり飢えて死んでしまうことになる。
わたしは人間なので、そんな厳しい生存競争にさらされることはないな、と彼女は思う。でも、よかった、とは思えないのはなぜだろう。
ふと、英語の袴田先生が気持ち悪いと感じるのは、肌のせいではなく、しゃべりかたのせいだと気づく。なんかぬるぬるしたしゃべり方。一昨日も、宿題を忘れたクラスメートのアンナをぬるぬると遠回しに責めた。アンナはクラスで一番成績がよくて、超難関校の高校進学をねらっているのはみんな知っている。だからクラスメートも応援しているけれど、教師にはウケがよくない。命令されたりコントロールされるのを嫌悪して、教師には反抗的な態度を取ってばかりいる。教師はそれをしかりたいのに、成績は非の打ち所がないので、やりにくくてしようがないらしい。
アンナはわたしたちのスターで、アイドルだ。アンナをぬるぬると責める袴田のことばと、彼のぬるぬるした油っぽい肌が結びついて、彼女のなかに生理的な嫌悪感が生まれている。
アンナは気持ち悪い大人たちをものともしないで、いい高校に行き、いい大学に進んで、社会でもバリバリにキャリアを積んでいくのだろう。わたしはアンナのようにはなれない。わたしはアンナのようには強くない。
そう、まるでいま窓際で世界の暴力をなにも知らずにのろのろと行進しているカマキリの子どものように、弱くて、ちっぽけで、いまにも消え入りそうな存在だ。弱いものがこの暴力的な世界で生きていくには、どうしたらいいんだろう。生きのびるために戦わずにすむ世界はないのだろうか。弱いものがあたたかく受けいれられ、弱いままでいられる世界はないのだろうか。
このカマキリの子どもたちのなかに、もし大人になるまで生きのこり、パートナーを見つけ、つぎの世代をのこすことに成功するものがいるとするなら、彼は……あるいは彼女はどうやって生きのこるのだろうか。生きのこれないものと生きのこれるものの差はなんだろう。わたしとアンナの差みたいなものだろうか。
明け方に目がさめた。
カマキリの子どもたちがみんな外に出ていけるように、窓を開け放ったまま眠りについていた。それが気になって、彼女はベッドに身体を起こす。裸足のつま先で床をさわり、さほど冷たさを感じないのを確認してから、立ちあがる。
空はまだ暗い。日の出までまだだいぶ時間がありそうだ。
今日は学校があることを彼女は思いだす。
カマキリの子どもたちはもうほとんどいなくなっていた。窓枠を越え、外壁をつたって地面へと降りていったのだ。部屋の窓は隣家の壁に面しているけれど、すこし距離があって、人ひとり通れるくらいの路地になっている。砂利が敷きつめられ、雑草がしょぼしょぼと生えている。日当たりが悪く、生い茂った草が手におえなくなることはない。もちろんそこでカマキリたちが生きていくことはできないだろう。
目をこらしたけれど、地面に子どもたちの姿は確認できない。
路地の右手は道路、左手はうちと隣家の庭、そして裏の屋敷の大きな庭へとつづいている。そこなら何匹か生きのびられるかもしれない。殺虫剤がまかれなければ。
ふとなにかの物音で、彼女は首をまわす。アゲハの蛹がかすかな音を立てながら動いていた。
羽化しようとしている。背中が割れて、なかから蝶の一部が顔を出している。
蜂に寄生されてはいなかった。
蝶はだれかの生まれかわりだという話を、だれかから聞いたことがあるような気がする。幼いころの記憶、おばあちゃんから聞いたのかもしれない。もしそうだとしたら、わたしが死んだらどんな蝶に生まれかわるんだろうか。
世界がどんなであろうと、みんな命をつないで生きていく。