沈黙の朗読——記憶が光速を超えるとき(1)

(C)2010 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author

—– 朗読パフォーマンスのためのシナリオ —–

 私はあの日、あの日というのがいつのことなのか定かではないのだが、夏至を迎えたばかりのように思うし、あるいは梅雨時のむしむしした日だったようにも思うが、とにかく暑苦しかったことだけは確かだったあの日、私がいつものように家を出ようとすると妻が帰りに忘れずにあれを買ってきてねといい、私はそのことがなんのことなのかわからなくて、ところで妻の名前はなんだっけ、間違えて呼んだりしたらとんでもないことになるぞと考えながら、とりあえずおまえと呼ぶ事にしようと決めて、あれってなんだっけなおまえとたずね返すと、私の、名前を思いだせないままの妻は、あらいやだあなたあれほど何度もたのんでたのにだから心配だったのよまた忘れるんじゃないかってと、いつまでも肝心のことを答えようとしないまま私をぐちぐちとなじりつづけるものだから、私の胸のなかにはなにかしらよどんだもの、まるで雨の日の増水した川にひっかかっている流木に腐った葉やらスーパーのレジ袋やら破れたTシャツやらコンドームやらがからみつき茶色くよどんでいるような光景が生まれ、私はなにかをいいかえそうと口をひらくのだがそこから出てくる言葉は私の灰色の大脳皮質までは浮かびあがって来ず、先に私の、名前を思いだせないままの妻が私をぐちぐちとなじるその言葉のつづきで、洗面所の蛇口のゴムのパッキンを買ってきてなおしてくれるっていってたじゃないほらいくらきつく締めてもぽたぽた水が止まらないのをこんなの直すのわけはないといったのはあなたよ覚えてるでしょう、といわれてみればたしかにそのようなことをいった覚えがあるような気がしてきたが、その記憶は本当に私の記憶なのだろうか、それともだれかから、いやつまり私の、名前を思いだせないままの妻からいわれて植えつけられた記憶なのだろうか、あるいは夢で見たことを現実の記憶と思いこんでしまったのだろうか、それだとしたら私の、名前を思いだせないままの妻の記憶も私の夢の記憶を共有しているということになってしまい、それは理屈にあわないというか現実的ではないような気がするが、その時はもちろんそんな考えを振りはらい、とにかく私の、名前を思いだせないままの妻の要求は私に伝えられたわけだからいつもどおり家を出て仕事に向かうことに決めて、わかったよおまえ帰りがけには忘れないように蛇口のパッキンを買ってきて洗面所の水漏れを直してやるからといい残して駅に向かったあの日、あの日というのがいつのことなのか定かではないのですが、夏至を迎えたばかりのように思うし、あるいは梅雨時のむしむしした日だったようにも思いますが、とにかく暑苦しかったことだけは確かだったあの日、ホームにはいつものように、いつもというのがいつのことをさしているのやら自分でもさだかではないまま申しておりますが、ホームにはいつものようにサラリーマンやらサラリーウーマンやら女子高校生やら老婆やらがごったがえしながら電車の到着を待っておりましたあの日、私は私の前にいた女子高校生の短いスカートからのびたむちむちした太ももに視線を落としながら、なぜ女子高校生はたくさんいるのに男子高校生はあまり見かけないのだろう、それは私が女子高校生についつい目が行ってしまい彼女らにばかり注意をひかれてしまうせいであって、男子高校生も確かにいるのに私の視線が彼らを素通りし、結果的に彼らは私にとって存在しないと同様のことになっているという理由からだろうかなどとかんがえておりましたところへ、あっけなく電車が人々をなぎ倒さんばかりの勢いでホームへ、いや正確にいえばホームの間に平行に敷かれた二本のレールの上へと進入してきて、停止線を越えてオーバーランすることもなく、ちらと見えた運転士は私と同年輩くらいの中年男性のようであり、たぶんベテラン運転士でありましょう、すでに何千回となく同じ場所同じ時間に同じように電車を停止させてきたことだろう経験に裏打ちされた一見やる気のない沈鬱な表情を私にかいま見せ、そういえば私はいったい何歳なのだろう、あなた、何歳に見えますか、私?
 エアが抜ける音がする。ぷしゅーうううドアが開く。降りる人はあまりいない。ひとり。ふたり。さんにん。そのくらい。木を植えた人は降りたのか? 降りる人を待ちかねたように、ホームにたまっていた人々はにじにじとホームと電車の間の隙間をまたぎ越え、押し合いへし合い、車両に乗りこんでいくのであります。私もスカートからのびたむちむちした太ももを持つ女子高校生のあとにつづいて車両に乗りこんでいったのであります。
 背後からぎゅうぎゅうぎゅうと車両のなかほどへと押しこまれていきながら、私は私の背中を押しているこの感触が男性のものか女性のものか無意識にさぐっていることに気づくが、私の背中の右の肩甲骨の上のほうに強くあたっているひどく角ばったものはほぼまちがいなく背の高い大柄な男性の拳の甲から手首の関節の外側あたりで、それがあまりに硬くてとんがっているものだから私は痛くてしかたがないのを振り返って文句をいうわけにもいかなくてがまんしながら、同時に私の前にいる小柄な女子高校生に自分の身体をあまりに強く押しつけて密着してしまわないように気をつけているのは、あながち私の気の小ささばかりではないであろう社会的に外部強制された内部要因なのだろうけれど、私は気の小さい人間と人からいわれたことはあるだろうかいやないと思うけれど、しかし正直にいえばどちらかというと気の小さい人間ではあろうと自分では思えるその証拠に、人から頼まれごとをしてそれが自分には不向きな仕事であったり気の向かないことであったりしてもきっぱりといやとはいえないところがあって、そのせいであとあと不愉快な思いをしたり、結局頼まれたことが片付かなくて相手にまで不愉快な思いをさせて信頼を失ってしまったりといったことが子どものころからたびたびあったことを思い返せばそのとおりであるということができるし、いまもまさに私の半分ほども体重がないだろう小柄でひ弱そうな女子高校生を相手に狐の前を通り抜けようとしている兎のごとくびくびくしながら必死に足を踏ん張って身体が密着しないようにこらえていると、発車の合図のピロピロと気の抜けた音楽が鳴り終わりぷしゅーうううとドアが閉まりがたんういぃぃぃんと車体と駆動モーターの音を立てて電車が動きはじめ、密着しあった人々は慣性と加速度の物理法則にしたがっていっせいに進行方向とは逆方向に向かって身体を押し寄せられ、どこかで悲鳴があがるのが聞こえた。
 加速度のおかげで、私の身体は女子高校生の身体からやや離れる。が、ほっとしたのは一瞬にすぎない。加速度で電車の後ろ方向に押しつけられた人々の圧力が、その反動で前方向にすみやかにもどってくる。そして前よりも強く私の身体は女子高校生の身体に押しつけられてしまう。私は左の手に鞄をさげている。鞄は密着した人の身体にはさまれて、しっかり握っていなければどこかに持っていかれそうだ。私は鞄を左の手でしっかりと握っている。右手のことを忘れていた。私は自分に右手があるということを忘れていた。そうなのだ、私は時々、自分に右手があることを忘れてしまうことがある。私に忘れられた右手は存在しないのとおなじだ。切断された私の右手。人は二度死ぬといったのはだれだったか。最初の死は肉体の死。二度目の死は人々から忘れられたとき。これをいったのはだれだっけ。アボリジニの言葉だったか、あるいは仏教の言葉か。それにならえば、私の右手はしゅっちゅう死んだり生き返ったりしているわけだ。ははははは。
 そんなこというなら、最近かけはじめた老眼鏡だってしょっちゅう死んだり生き返ったりしているぞ。ははは、ははは。おっと、右手だ。私の右手。存在を忘れていた私の右手を生き返らせねばならない。私の右手。いったいどこにあるのか。まさか家に置き忘れてきたわけではないだろうな。
 もちろんそんなはずはなく、私の右手は私の右の鎖骨と肩甲骨の延長線上にある上腕骨の関節の部分で靭帯やら筋肉やらら血管やらららリンパ節やららららら神経やららららららによって接続され右肩にぶらさげられているわけで、なにも持っていない右手は下向きになった腕の先に電車の床に向かってくっついているはずなのを私は知覚することによって生き返らせようとするとき、なにかがその知覚の働きをさえぎろうとしているのを感じそれはなにかと思えば大脳皮質のもっとも奥まった部分にしまいこまれてたったいままで一度も意識の表面に浮上することのなかったひとつの記憶であり、それはまるでマルセル・プルーストが紅茶に浸して柔らかくなったプチット・マドレーヌ、プチット、プチット、プチット・マドレーヌ、プチット、プチット、プチット、プチット・マドレーヌ、プチット             マドレーヌの一切れを口に含んだ瞬間に遠い過去の失われた時をよみがえらせたかのような異常な作用が私の前腕部にも起きたかのようで、そのとき私はひとりのタイムトラベラーとして一匹の犬を抱いていた。

公演写真「朗読とマジックのあるカフェ」

先日、10月24日におこなわれた「朗読とマジックのあるカフェ」の公演の模様を、写真で紹介します。
写真はすべて、名古屋ウェルバ・アクトゥスのディレクターをやってくれているファンキーが撮ってくれたものです。わざわざ名古屋から来てくれました。

(1)菊地裕貴と照井数男

(2)照井数男 いよっ、男前!

(3)水城ゆう ピアノソロのときの。いよっ、男前! 後姿だけど。

(4)左から菊地裕貴、唐ひづる、玻瑠あつこ、野々宮卯妙 華やかな絵ですな。

(5)菊地裕貴、唐ひづる、玻瑠あつこ

(6)マジシャン・畷案山子 本に火がつこうとしているところ。

(7)照井数男と女性陣 楽しそうな絵ですな。

(8)おなじく リレー朗読の最中。

(9)おなじく これも女性陣はリレー朗読中でしょうか。

(10)菊地裕貴と唐ひづる

(11)菊地裕貴 出演者のなかでは一番若い。かわいいね。

(12)玻瑠あつこと野々宮卯妙

(13)唐ひづる 背後霊は照井数男

(14)玻瑠あつこ 背後霊は照井数男

(15)終演まぢか

(16)終演後の歓談タイム

(17)集合 出演者とげろきょメンバー。みんないい顔してる。

(18)舞台袖の桟敷席 なに楽しそうにはしゃいでるの? ロボットが見てる。

「朗読とマジックのあるカフェ」ライブレポート

2010年10月24日。あ、息子の誕生日だった。
10時すぎ、羽根木の家へ。けっこう寒い。雨が降りそうだ。丸さんが車ですでに来て、駐車場で待っていてくれた。さっそくいっしょに家の中へ。
ちょっとお茶してから、荷物を積みこみ(といっても今回はたいした荷物はなし)、11時に下北沢〈Com.Cafe 音倉〉へ。関係者は現地集合することになっていて、すでに出演者はみんな来ていた。

まずは照明のセッティング。
今回、照明はまぁやがやってくれることになっていて、その打ち合わせを最初にやる。そのまま照明合わせを兼ねて軽くリハーサル。
途中からマジックの畷さんが来たが、マジックの仕込みがあるので、そのままリハーサルを進行。ただし、照明や立ち位置などは相談しながら。

リハーサルはあっという間に終わる。
あとはのんびり。昼食を食べたり、休んだり。
名古屋のファンキーから、いまから行くという連絡が入る。びっくり。柊麗子といっしょに東京に来ているらしい。うれしい。

14時、開場。
開演1時間前に開場というゆったりしたスケジュールだが、これは店の意向を受けて。開演までゆっくり飲食を楽しんでもらおうということで、ライブカフェならでは。
今回、集客に苦労したのだが、昼の部はそれでもそこそこ来てくれる方が集まった。ほとんどが顔見知りや、出演者の知り合いばかりなので、会場はなごやかな雰囲気に。これはこれでいい感じ。

15時、開演。
今回、当日パンフレットを作らなかったので、この演目の経緯や出演者について私が最初に少ししゃべる。こういうことは珍しい。
そのあと、照明を落とし、演目がスタート。
この内容は、近く、抜粋映像をYouTubeなどで見られるようにする予定。ビデオカメラを丸さんが担当してくれた。あと、iPod touch でもビデオ録画してみた。

終わってから、皆さんと歓談。
いつもいわれることだが、どこまで即興でどこまで取り決めがあるのか、という話になる。多少のきっかけはあるが、基本的に読みはすべて即興。このように読まなければならない、という演出指示はいっさいない。ある程度、こういう読み方がおもしろいのでそれでいこう、という稽古でのイメージ作りはあるが、それも作り込まれたものではなく、その場の雰囲気や出演者同士のコミュニケーションのなかで自在に変化していく。
音楽はもちろん、完全即興である。
というと、たいていの人がびっくりするのだが、むしろ演出的取りきめであんな複雑なことはできないと思うのだが。もしそれをやるとしたら、何ヶ月もみっちり、綿密な段取り稽古をしなければならないだろう。ってなことを、演劇の人たちは普通にやっているのかもしれないが。
取り決めを完全にこなせることを練習するのではなく、どのようにでもやれるように、どんなことにでも対応できるように稽古するのが、現代朗読の方法だ。

昼の部のお客さんが帰り、我々は食事。
毎回、音倉では、まかない飯が出る。これがありがたい。そしておいしいのだ。今回はタイカレーだった。ありがたくいただく。
スケジュールがゆったりしているのはいいが、待ち時間が長い。居眠りしたり、のんびりと夜の部の開場を待つ。

18時、夜の部、開場。
お客さんが少ないので、最初、だれも来なくて、このままだれも来ないのではないかという錯覚に陥るほどだった。私も少し居眠りしてしまった。
夜の部のお客さんがようやく何組かやってきて、にわかににぎやかになった。身内ばかり、というか、よくいえばアットホームな雰囲気のなか、19時、夜の部開演。
昼の部より笑い声がたくさん聞こえたり、マジックとお客さんの交流が楽しかったりと、また違った雰囲気になった。

終わってから歓談。
これもいつもいわれることだが、これだけおもしろい内容なのに、もっとたくさんの人に見てもらいたいね、といわれる。毎回いわれる。つまり、宣伝下手、集客力のなさ、ゆえのことだ。
今後のライブや公演の開催については、根本的な部分から見直したいと思った。つまり、我々はなんのためにライブや公演をやるのか、という本質的な問いからの再スタートだ。

いずれにしても、昨日音倉においでいただいたすべての皆さんには、深く感謝いたします。ほかでは得ることのできない貴重な体験をさせていただきました。皆さんもいくらかでもその体験を共有していただけたら幸いでした。
(演出:水城ゆう)

朗読とマジックのあるカフェ

当公演は終了しました。
ご来場ありがとうございました!

2010年10月24日(日)昼の部(15時)/夜の部(19時)@下北沢

「朗読とマジックのあるカフェ」

下北沢のライブカフェ、Com.Cafe音倉にて、芥川龍之介「魔術」を現代朗読の味つけで
「食卓」バージョンとはまったく違う「魔術」
現代朗読ならではの、その場その時を共有する全員での共感をめざして……
7月版とはまったく異なる演出で、妖かし感200%UP!
さらに広い空間で、ロードクとマジックが重なりあい絡みあい、地下に七色の虹を織りだします……

現代朗読協会にしかできない、即興演奏に呼応する自由な発想でのセッション的パフォーマンス!

オーガニック料理&スイーツをいただきながら、くつろいで素敵な時間をお過ごしください
〈日時〉10月24日(日) 昼の部 15時開演/夜の部 19時開演 ※開場は1時間前※
〈会場〉下北沢 Com.Cafe音倉 (京王井の頭線・小田急線下北沢駅徒歩2分)
前売 3,000円 /当日 3,500円 ※1ドリンク付き※
〈出演〉畷案山子(マジシャン)+唐ひづる/玻瑠あつ子/菊地裕貴/照井数男/野々宮卯妙(以上ロードク)
〈演出・音楽〉水城ゆう

◆◇◆ ◇◆◇ ◆◇◆
 2010年7月17日(土)夜7時@東松原
ライブショー
「朗読とマジックのある食卓」
東松原のレストラン、スピリット・ブラザーズで、マジックとお料理とのコラボレーションライブ
 ドリンクと美しい小皿料理がついて、なんと3,000円
美味しい食事とお酒を楽しみながら、マジックと朗読、そして音楽が混然一体となった楽しい空間に酔ってください。
2010年7月17日(土)  開場18:30/開演19:00
(京王井の頭線東松原駅徒歩30秒)
料金 3,000円 (1ドリンク&1プレートディッシュ付き)
〈出演〉
畷 案山子(奇術師)
野々宮卯妙/唐ひづる/玻瑠あつこ/シバシムツキ/城崎つきみ/照井数男(以上現代朗読協会)
水城ゆう(音楽)

◆◇◆ ◇◆◇ ◆◇◆

「朗読とマジックのある食卓」満員御礼!!

「特殊相対性の女」公演レポート(6)

玉子、少女、女、老婆、若さ、老い、自由、移りゆくもの。

昼の部は4時すぎに、夜の部は8時すぎに終了。
終演後は昼の部も夜の部もお客さんが残ってくれてお話ができました。またたくさんのアンケートを回収させていただき、うれしかったです。
アンケートの内容についてはまたあらためてご紹介するかもしれません。

こんなに散らかしたのはだれですか?