沈黙の朗読――記憶が光速を超えるとき(2)

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Authorized by the author

—– 朗読パフォーマンスのためのシナリオ —–

 あれは何年前のことだったろうか、その犬の名前はいまとなっては妻の名前と同様忘れてしまったが、愛苦しいゴールデンレトリーバーで、まったく家族同様に暮らしていたのだから、その犬の名前を私が忘れてしまったのはおそらくフロイトがいうところのつらい記憶の番人の仕業に違いないのだが、彼の長い毛足のふさふさと柔らかな体毛の感触ははっきりとした実感をともなってまるでいまでも手をのばせばそこに実体化するがごとく記憶の奥底にしまいこまれていたし、それがトリガーとなってぐりぐりと動くたくましい躍動する筋肉の感触や雨に濡れるととくに強くなる身体のにおいまで実体化するようで、しかしいま私が思いだしているのは彼が悪性のリンパ腺腫でたった六歳で死んでしまったあの朝、まだぬくもりの残っている大きな身体を玄関のコンクリートのたたきから部屋のなかへと運びこもうと抱きあげたまさにそのときの感触でありました。私はその感触を
        なので神聖なことのようにいまでも感じているのであり、悲しみ、喜び、楽しみ、暖かさ、活発さ、冒険、新鮮、安心といったさまざまな感情の記憶とつながっている大切な記憶のトリガーといってもいいのであります。
 それなのに、であります。
 それなのに、であります。
 それなのに、であり    右手に知覚が戻ったのは、私の右手をなにかが強く圧迫しながら強い力で上へと持ちあげようとしていたときであります。私は私の神聖な記憶を無理矢理かなたへと押しやられ、かるい憤りを覚えながら、私の右手に起こりつつあることを認識しようとしたのであります。
 だれかが、何者かが私の右手をつかみ、強くつかみ、握りしめ、そして私の意に反して上のほうに差し上げようとしている。

 私が身体を密着させまいと懸命の努力をしていたところの私の前にいた短いスカートからむちむちした太ももをのぞかせていた女子高校生が首をねじまげて私のほうを見上げ、そう彼女は私よりずっと小柄だったため、私を見るためには下から見上げるような格好にならざるをえず、上目遣いになり、下方から鋭角に私を見上げることになり、視線は下から上へと向かって急角度で突きあげられ、私の目に視線が突き刺さり、私はそれがなにを意味するのかとっさには理解できず、ただ視線を受け止めるばかりで、とまどった私の視線が彼女に伝わったのかどうかすらわからず、彼女は鋭い視線を向け、その視線は怒りや憎しみに満ちているようにも見え、たんなる眼球がなぜそのような感情を表出するのか私には理解できず、眼球ではなく眼球を縁取るところの瞼や眉やそれを取り囲む表情筋が感情を表出しているのかもしれず、また瞳孔の奥の水晶体のさらに奥にある網膜に走る無数の毛細血管の脈動が感情の興奮状態を表出するのかもしれず、そんなことを
      の右手が私の意に反して無理矢理上のほうへと引きあげられていたのでございます。

 ち か ん
 で す こ
 の て で
 す

 電車はいままさに次の駅のホームへとすべりこんでいくタイミングであった。かの女子高校生がそのタイミングを見計らっていたことは明らかであった。私の思考は停止していた。いや、実際には停止していたわけではない。脈絡のある思考が失われていたというべきだろう。私の思考の道すじは脈略のあるストーリーを失い、意味を失っていた。思考が脈略を失ったとき、人は自意識を失う。自分になにが起こっているのかわからず、また自分が何者なのかもわからなくなる。私の右手は女子高校生につかまれていた。女子高校生は私の右手をつかんで肩より高く持ちあげていた。持ちあげたこの手が「ちかん」であると叙述していた。私の手はちかんなのか。ちかんとはなんなのか。なにをもって私の手はちかんと定義されるのか。
 私のまわりがざわめいている。電車はまさに駅のホームに停車しようとしている。電車のドアが開こうとしている。乗客のひとりがいう。こいつを警察に

       突きだすんだ。おれがいっしょに行ってやるよ。若い男の声だ。もうひとりがいう。私も行ってあげる。若い女の声だ。私はふたりの男女に両側からそれぞれ腕をつかまれ、開いたドアから電車の外へと連れだされる。
 電車のドアの外は駅のホームの上であった。駅のホームはまだ真新しい。数年前に路線の複々線化のために駅と線路が高架になり、駅のホームも新しく作りかえられた。どの駅も似たような風景になり、駅名のプレートを確認しなければ

             どの駅なのかわからない

 私たちの、私たちというのは私と私の右手をつかんだ女子高校生と私の両腕をつかんだ男女ふたりの計四人であるが、その私たちの背後で電車のドアが閉まる。振り返ると

      ドアのガラス越しに好奇の色を浮かべた乗客たちの視線が私たちに向けられている。視線が横すべりを始める。ゆっくりと横にすべっていき、しだいに速度をあげる。視線は私の視線から遠くはなれ

  見えなくなる。電車がハイブリッドモーターの音を高めながら       速度をあげる。八両編成の電車が
                ホームから離れていく。一瞬

   最後尾の車両の最後尾の窓から上体を半分のぞかせた車掌と視線が合い、パチン

            という音が聞こえたような気がするが、もちろんそれは錯覚で

         引きこまれるような風圧が私を線路側へわずかに押しやる。

 いい天気だ。

 真っ青な空がホームの上を覆う屋根の間から見える。それを見て、私は記憶を訂正する。あの日が梅雨時のむしむしした日かもしれなかったという記憶は間違いであった。からっと晴れた夏至に近い初夏の日であった。真っ青な空には真っ白な積雲が綿菓子のようにぽこぽこぽこぽこぽこぽこぽこぽこぽこぽっと浮かんでいる。綿菓子の手前を電車の架線が何本かまっすぐに横切っている。雲の背後を架線とは鋭角をなす角度の白い直線が横切っている。飛行機雲だ。飛行機雲だ。私は夏の空が好きだ。私は夏の空が好きだ。私の生まれた土地は田舎の山間部だったが、その夏の空も好きだった。私は夏の空が好きだ。飛行機雲だ。私が生まれたのは田舎のほうの、山が谷でくびれ、せせらぎが川となって平野へと流れこむ、その出口のところだ。小さな村となだらかな山があって、人々は長い年月をかけて山と折り合いをつけながら、段々畑や田圃を作ってきた。私が生まれたのは、コブシや桜が終わり、藤や桐が薄紫色の花を咲かせるころ、山吹が山裾の小道を黄色く彩るころだった。雪解けの名残り水が田に導かれて水平に広がり、空を映してぬるむと、白鷺が冬眠からさめた蛙をついばみ、子どもらはスカンポを噛みながら畦道を駆け抜ける。蛇口のパッキンを買わなければ、と私は思いだす。

沈黙の朗読——記憶が光速を超えるとき(1)

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—– 朗読パフォーマンスのためのシナリオ —–

 私はあの日、あの日というのがいつのことなのか定かではないのだが、夏至を迎えたばかりのように思うし、あるいは梅雨時のむしむしした日だったようにも思うが、とにかく暑苦しかったことだけは確かだったあの日、私がいつものように家を出ようとすると妻が帰りに忘れずにあれを買ってきてねといい、私はそのことがなんのことなのかわからなくて、ところで妻の名前はなんだっけ、間違えて呼んだりしたらとんでもないことになるぞと考えながら、とりあえずおまえと呼ぶ事にしようと決めて、あれってなんだっけなおまえとたずね返すと、私の、名前を思いだせないままの妻は、あらいやだあなたあれほど何度もたのんでたのにだから心配だったのよまた忘れるんじゃないかってと、いつまでも肝心のことを答えようとしないまま私をぐちぐちとなじりつづけるものだから、私の胸のなかにはなにかしらよどんだもの、まるで雨の日の増水した川にひっかかっている流木に腐った葉やらスーパーのレジ袋やら破れたTシャツやらコンドームやらがからみつき茶色くよどんでいるような光景が生まれ、私はなにかをいいかえそうと口をひらくのだがそこから出てくる言葉は私の灰色の大脳皮質までは浮かびあがって来ず、先に私の、名前を思いだせないままの妻が私をぐちぐちとなじるその言葉のつづきで、洗面所の蛇口のゴムのパッキンを買ってきてなおしてくれるっていってたじゃないほらいくらきつく締めてもぽたぽた水が止まらないのをこんなの直すのわけはないといったのはあなたよ覚えてるでしょう、といわれてみればたしかにそのようなことをいった覚えがあるような気がしてきたが、その記憶は本当に私の記憶なのだろうか、それともだれかから、いやつまり私の、名前を思いだせないままの妻からいわれて植えつけられた記憶なのだろうか、あるいは夢で見たことを現実の記憶と思いこんでしまったのだろうか、それだとしたら私の、名前を思いだせないままの妻の記憶も私の夢の記憶を共有しているということになってしまい、それは理屈にあわないというか現実的ではないような気がするが、その時はもちろんそんな考えを振りはらい、とにかく私の、名前を思いだせないままの妻の要求は私に伝えられたわけだからいつもどおり家を出て仕事に向かうことに決めて、わかったよおまえ帰りがけには忘れないように蛇口のパッキンを買ってきて洗面所の水漏れを直してやるからといい残して駅に向かったあの日、あの日というのがいつのことなのか定かではないのですが、夏至を迎えたばかりのように思うし、あるいは梅雨時のむしむしした日だったようにも思いますが、とにかく暑苦しかったことだけは確かだったあの日、ホームにはいつものように、いつもというのがいつのことをさしているのやら自分でもさだかではないまま申しておりますが、ホームにはいつものようにサラリーマンやらサラリーウーマンやら女子高校生やら老婆やらがごったがえしながら電車の到着を待っておりましたあの日、私は私の前にいた女子高校生の短いスカートからのびたむちむちした太ももに視線を落としながら、なぜ女子高校生はたくさんいるのに男子高校生はあまり見かけないのだろう、それは私が女子高校生についつい目が行ってしまい彼女らにばかり注意をひかれてしまうせいであって、男子高校生も確かにいるのに私の視線が彼らを素通りし、結果的に彼らは私にとって存在しないと同様のことになっているという理由からだろうかなどとかんがえておりましたところへ、あっけなく電車が人々をなぎ倒さんばかりの勢いでホームへ、いや正確にいえばホームの間に平行に敷かれた二本のレールの上へと進入してきて、停止線を越えてオーバーランすることもなく、ちらと見えた運転士は私と同年輩くらいの中年男性のようであり、たぶんベテラン運転士でありましょう、すでに何千回となく同じ場所同じ時間に同じように電車を停止させてきたことだろう経験に裏打ちされた一見やる気のない沈鬱な表情を私にかいま見せ、そういえば私はいったい何歳なのだろう、あなた、何歳に見えますか、私?
 エアが抜ける音がする。ぷしゅーうううドアが開く。降りる人はあまりいない。ひとり。ふたり。さんにん。そのくらい。木を植えた人は降りたのか? 降りる人を待ちかねたように、ホームにたまっていた人々はにじにじとホームと電車の間の隙間をまたぎ越え、押し合いへし合い、車両に乗りこんでいくのであります。私もスカートからのびたむちむちした太ももを持つ女子高校生のあとにつづいて車両に乗りこんでいったのであります。
 背後からぎゅうぎゅうぎゅうと車両のなかほどへと押しこまれていきながら、私は私の背中を押しているこの感触が男性のものか女性のものか無意識にさぐっていることに気づくが、私の背中の右の肩甲骨の上のほうに強くあたっているひどく角ばったものはほぼまちがいなく背の高い大柄な男性の拳の甲から手首の関節の外側あたりで、それがあまりに硬くてとんがっているものだから私は痛くてしかたがないのを振り返って文句をいうわけにもいかなくてがまんしながら、同時に私の前にいる小柄な女子高校生に自分の身体をあまりに強く押しつけて密着してしまわないように気をつけているのは、あながち私の気の小ささばかりではないであろう社会的に外部強制された内部要因なのだろうけれど、私は気の小さい人間と人からいわれたことはあるだろうかいやないと思うけれど、しかし正直にいえばどちらかというと気の小さい人間ではあろうと自分では思えるその証拠に、人から頼まれごとをしてそれが自分には不向きな仕事であったり気の向かないことであったりしてもきっぱりといやとはいえないところがあって、そのせいであとあと不愉快な思いをしたり、結局頼まれたことが片付かなくて相手にまで不愉快な思いをさせて信頼を失ってしまったりといったことが子どものころからたびたびあったことを思い返せばそのとおりであるということができるし、いまもまさに私の半分ほども体重がないだろう小柄でひ弱そうな女子高校生を相手に狐の前を通り抜けようとしている兎のごとくびくびくしながら必死に足を踏ん張って身体が密着しないようにこらえていると、発車の合図のピロピロと気の抜けた音楽が鳴り終わりぷしゅーうううとドアが閉まりがたんういぃぃぃんと車体と駆動モーターの音を立てて電車が動きはじめ、密着しあった人々は慣性と加速度の物理法則にしたがっていっせいに進行方向とは逆方向に向かって身体を押し寄せられ、どこかで悲鳴があがるのが聞こえた。
 加速度のおかげで、私の身体は女子高校生の身体からやや離れる。が、ほっとしたのは一瞬にすぎない。加速度で電車の後ろ方向に押しつけられた人々の圧力が、その反動で前方向にすみやかにもどってくる。そして前よりも強く私の身体は女子高校生の身体に押しつけられてしまう。私は左の手に鞄をさげている。鞄は密着した人の身体にはさまれて、しっかり握っていなければどこかに持っていかれそうだ。私は鞄を左の手でしっかりと握っている。右手のことを忘れていた。私は自分に右手があるということを忘れていた。そうなのだ、私は時々、自分に右手があることを忘れてしまうことがある。私に忘れられた右手は存在しないのとおなじだ。切断された私の右手。人は二度死ぬといったのはだれだったか。最初の死は肉体の死。二度目の死は人々から忘れられたとき。これをいったのはだれだっけ。アボリジニの言葉だったか、あるいは仏教の言葉か。それにならえば、私の右手はしゅっちゅう死んだり生き返ったりしているわけだ。ははははは。
 そんなこというなら、最近かけはじめた老眼鏡だってしょっちゅう死んだり生き返ったりしているぞ。ははは、ははは。おっと、右手だ。私の右手。存在を忘れていた私の右手を生き返らせねばならない。私の右手。いったいどこにあるのか。まさか家に置き忘れてきたわけではないだろうな。
 もちろんそんなはずはなく、私の右手は私の右の鎖骨と肩甲骨の延長線上にある上腕骨の関節の部分で靭帯やら筋肉やらら血管やらららリンパ節やららららら神経やららららららによって接続され右肩にぶらさげられているわけで、なにも持っていない右手は下向きになった腕の先に電車の床に向かってくっついているはずなのを私は知覚することによって生き返らせようとするとき、なにかがその知覚の働きをさえぎろうとしているのを感じそれはなにかと思えば大脳皮質のもっとも奥まった部分にしまいこまれてたったいままで一度も意識の表面に浮上することのなかったひとつの記憶であり、それはまるでマルセル・プルーストが紅茶に浸して柔らかくなったプチット・マドレーヌ、プチット、プチット、プチット・マドレーヌ、プチット、プチット、プチット、プチット・マドレーヌ、プチット             マドレーヌの一切れを口に含んだ瞬間に遠い過去の失われた時をよみがえらせたかのような異常な作用が私の前腕部にも起きたかのようで、そのとき私はひとりのタイムトラベラーとして一匹の犬を抱いていた。

公演写真「朗読とマジックのあるカフェ」

先日、10月24日におこなわれた「朗読とマジックのあるカフェ」の公演の模様を、写真で紹介します。
写真はすべて、名古屋ウェルバ・アクトゥスのディレクターをやってくれているファンキーが撮ってくれたものです。わざわざ名古屋から来てくれました。

(1)菊地裕貴と照井数男

(2)照井数男 いよっ、男前!

(3)水城ゆう ピアノソロのときの。いよっ、男前! 後姿だけど。

(4)左から菊地裕貴、唐ひづる、玻瑠あつこ、野々宮卯妙 華やかな絵ですな。

(5)菊地裕貴、唐ひづる、玻瑠あつこ

(6)マジシャン・畷案山子 本に火がつこうとしているところ。

(7)照井数男と女性陣 楽しそうな絵ですな。

(8)おなじく リレー朗読の最中。

(9)おなじく これも女性陣はリレー朗読中でしょうか。

(10)菊地裕貴と唐ひづる

(11)菊地裕貴 出演者のなかでは一番若い。かわいいね。

(12)玻瑠あつこと野々宮卯妙

(13)唐ひづる 背後霊は照井数男

(14)玻瑠あつこ 背後霊は照井数男

(15)終演まぢか

(16)終演後の歓談タイム

(17)集合 出演者とげろきょメンバー。みんないい顔してる。

(18)舞台袖の桟敷席 なに楽しそうにはしゃいでるの? ロボットが見てる。

「朗読とマジックのあるカフェ」ライブレポート

2010年10月24日。あ、息子の誕生日だった。
10時すぎ、羽根木の家へ。けっこう寒い。雨が降りそうだ。丸さんが車ですでに来て、駐車場で待っていてくれた。さっそくいっしょに家の中へ。
ちょっとお茶してから、荷物を積みこみ(といっても今回はたいした荷物はなし)、11時に下北沢〈Com.Cafe 音倉〉へ。関係者は現地集合することになっていて、すでに出演者はみんな来ていた。

まずは照明のセッティング。
今回、照明はまぁやがやってくれることになっていて、その打ち合わせを最初にやる。そのまま照明合わせを兼ねて軽くリハーサル。
途中からマジックの畷さんが来たが、マジックの仕込みがあるので、そのままリハーサルを進行。ただし、照明や立ち位置などは相談しながら。

リハーサルはあっという間に終わる。
あとはのんびり。昼食を食べたり、休んだり。
名古屋のファンキーから、いまから行くという連絡が入る。びっくり。柊麗子といっしょに東京に来ているらしい。うれしい。

14時、開場。
開演1時間前に開場というゆったりしたスケジュールだが、これは店の意向を受けて。開演までゆっくり飲食を楽しんでもらおうということで、ライブカフェならでは。
今回、集客に苦労したのだが、昼の部はそれでもそこそこ来てくれる方が集まった。ほとんどが顔見知りや、出演者の知り合いばかりなので、会場はなごやかな雰囲気に。これはこれでいい感じ。

15時、開演。
今回、当日パンフレットを作らなかったので、この演目の経緯や出演者について私が最初に少ししゃべる。こういうことは珍しい。
そのあと、照明を落とし、演目がスタート。
この内容は、近く、抜粋映像をYouTubeなどで見られるようにする予定。ビデオカメラを丸さんが担当してくれた。あと、iPod touch でもビデオ録画してみた。

終わってから、皆さんと歓談。
いつもいわれることだが、どこまで即興でどこまで取り決めがあるのか、という話になる。多少のきっかけはあるが、基本的に読みはすべて即興。このように読まなければならない、という演出指示はいっさいない。ある程度、こういう読み方がおもしろいのでそれでいこう、という稽古でのイメージ作りはあるが、それも作り込まれたものではなく、その場の雰囲気や出演者同士のコミュニケーションのなかで自在に変化していく。
音楽はもちろん、完全即興である。
というと、たいていの人がびっくりするのだが、むしろ演出的取りきめであんな複雑なことはできないと思うのだが。もしそれをやるとしたら、何ヶ月もみっちり、綿密な段取り稽古をしなければならないだろう。ってなことを、演劇の人たちは普通にやっているのかもしれないが。
取り決めを完全にこなせることを練習するのではなく、どのようにでもやれるように、どんなことにでも対応できるように稽古するのが、現代朗読の方法だ。

昼の部のお客さんが帰り、我々は食事。
毎回、音倉では、まかない飯が出る。これがありがたい。そしておいしいのだ。今回はタイカレーだった。ありがたくいただく。
スケジュールがゆったりしているのはいいが、待ち時間が長い。居眠りしたり、のんびりと夜の部の開場を待つ。

18時、夜の部、開場。
お客さんが少ないので、最初、だれも来なくて、このままだれも来ないのではないかという錯覚に陥るほどだった。私も少し居眠りしてしまった。
夜の部のお客さんがようやく何組かやってきて、にわかににぎやかになった。身内ばかり、というか、よくいえばアットホームな雰囲気のなか、19時、夜の部開演。
昼の部より笑い声がたくさん聞こえたり、マジックとお客さんの交流が楽しかったりと、また違った雰囲気になった。

終わってから歓談。
これもいつもいわれることだが、これだけおもしろい内容なのに、もっとたくさんの人に見てもらいたいね、といわれる。毎回いわれる。つまり、宣伝下手、集客力のなさ、ゆえのことだ。
今後のライブや公演の開催については、根本的な部分から見直したいと思った。つまり、我々はなんのためにライブや公演をやるのか、という本質的な問いからの再スタートだ。

いずれにしても、昨日音倉においでいただいたすべての皆さんには、深く感謝いたします。ほかでは得ることのできない貴重な体験をさせていただきました。皆さんもいくらかでもその体験を共有していただけたら幸いでした。
(演出:水城ゆう)

朗読とマジックのあるカフェ

当公演は終了しました。
ご来場ありがとうございました!

2010年10月24日(日)昼の部(15時)/夜の部(19時)@下北沢

「朗読とマジックのあるカフェ」

下北沢のライブカフェ、Com.Cafe音倉にて、芥川龍之介「魔術」を現代朗読の味つけで
「食卓」バージョンとはまったく違う「魔術」
現代朗読ならではの、その場その時を共有する全員での共感をめざして……
7月版とはまったく異なる演出で、妖かし感200%UP!
さらに広い空間で、ロードクとマジックが重なりあい絡みあい、地下に七色の虹を織りだします……

現代朗読協会にしかできない、即興演奏に呼応する自由な発想でのセッション的パフォーマンス!

オーガニック料理&スイーツをいただきながら、くつろいで素敵な時間をお過ごしください
〈日時〉10月24日(日) 昼の部 15時開演/夜の部 19時開演 ※開場は1時間前※
〈会場〉下北沢 Com.Cafe音倉 (京王井の頭線・小田急線下北沢駅徒歩2分)
前売 3,000円 /当日 3,500円 ※1ドリンク付き※
〈出演〉畷案山子(マジシャン)+唐ひづる/玻瑠あつ子/菊地裕貴/照井数男/野々宮卯妙(以上ロードク)
〈演出・音楽〉水城ゆう

◆◇◆ ◇◆◇ ◆◇◆
 2010年7月17日(土)夜7時@東松原
ライブショー
「朗読とマジックのある食卓」
東松原のレストラン、スピリット・ブラザーズで、マジックとお料理とのコラボレーションライブ
 ドリンクと美しい小皿料理がついて、なんと3,000円
美味しい食事とお酒を楽しみながら、マジックと朗読、そして音楽が混然一体となった楽しい空間に酔ってください。
2010年7月17日(土)  開場18:30/開演19:00
(京王井の頭線東松原駅徒歩30秒)
料金 3,000円 (1ドリンク&1プレートディッシュ付き)
〈出演〉
畷 案山子(奇術師)
野々宮卯妙/唐ひづる/玻瑠あつこ/シバシムツキ/城崎つきみ/照井数男(以上現代朗読協会)
水城ゆう(音楽)

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「朗読とマジックのある食卓」満員御礼!!

「特殊相対性の女」公演レポート(6)

玉子、少女、女、老婆、若さ、老い、自由、移りゆくもの。

昼の部は4時すぎに、夜の部は8時すぎに終了。
終演後は昼の部も夜の部もお客さんが残ってくれてお話ができました。またたくさんのアンケートを回収させていただき、うれしかったです。
アンケートの内容についてはまたあらためてご紹介するかもしれません。

こんなに散らかしたのはだれですか?