「KOTOHOGU! 〜言祝ぐ東北」で言祝いできた

(レポート by 水城ゆう)
昨夜は武蔵小山のライブカフェ〈アゲイン〉での朗読ライブ「言祝ぐ東北」に行ってきた。
主催はげろきょの仲間・唐ひづる。ゲスト朗読で野々宮卯妙も出演。私は少しだけピアノ演奏で助っ人。
しゃちほこばった堅苦しいライブではなく、お客さんに飲んだり食べたりしてもらいながら、トーク混じりの気楽なライブで、大変楽しかった。お客さんのノリもよかった。
とはいえ、しっかりとメッセージも込められていて、最後はいろいろな思いが伝わったのではないだろうか。

それにしても唐ひづるの軽妙なトークと自由自在な朗読は、本当にすばらしかった。東北弁の朗読も楽しかった。それにどちらかというと重厚な野々宮がからみ、化学反応を起こしていた。私のピアノなどまったく邪魔なくらいで、本当によい朗読は余計な音は不要なのだと実感した。
おふたりさん、お疲れさまでした。

ライブパーティー追記

昨日書いたレポートは水城の自分用セットリストを見ながら書いてたので、演目に抜けがあった。
8演目に加えて、「7.」と「8.」の間にもう一演目あったのだった。
正しくは以下のとおり。

7. 水城ゆう「初霜」
 しまだなおこ
8. 水城ゆう「青い空、白い雲」
 まぁや&瀬尾明日香
9. 夏目漱石「蛇」
 野々宮卯妙

「青い空、白い雲」はゼミ生でライブワークショップにも参加していたまぁやと瀬尾明日香によるふたり読みで、ライブ直前になって急遽やることが決まったもの。
分かち読みや同時読みで構成されたものだが、あまりガチガチには決めごとはなかったとのこと。コミュニケーションのなかでストーリーが展開していくのが気持ちよかった。部分的に「問いかけと返答」のような読み方の工夫もあった。

ライブパーティー追記

昨日書いたレポートは水城の自分用セットリストを見ながら書いてたので、演目に抜けがあった。
8演目に加えて、「7.」と「8.」の間にもう一演目あったのだった。
正しくは以下のとおり。

7. 水城ゆう「初霜」
 しまだなおこ
8. 水城ゆう「青い空、白い雲」
 まぁや&瀬尾明日香
9. 夏目漱石「蛇」
 野々宮卯妙

「青い空、白い雲」はゼミ生でライブワークショップにも参加していたまぁやと瀬尾明日香によるふたり読みで、ライブ直前になって急遽やることが決まったもの。
分かち読みや同時読みで構成されたものだが、あまりガチガチには決めごとはなかったとのこと。コミュニケーションのなかでストーリーが展開していくのが気持ちよかった。部分的に「問いかけと返答」のような読み方の工夫もあった。

感動の羽根木朗読ライブパーティー

昨日7月9日(土)の午後3時から、羽根木の家で朗読ライブパーティーをおこなった。
「朗読はライブだ!」ワークショップ参加の4名を中心に、ほかにもゼミ生など何人かに参加してもらって、お座敷ライブを開催した。

まずびっくりしたのは、3時から始まって、終わったのは5時だった。たっぷり2時間、やっていた。
そして、暑かった。気温は35度を超えていた。羽根木の家にはエアコンなどもちろんない。

そんな条件のなか、お客さんと出演者が一体となり、2時間という時間をまったく感じないほどお互いに集中して、数々の演目が上演された。
終わってからも、さまざまな感想をいただいた。
音楽ライブや芝居をたくさん観に行っている人たちから、ダントツにおもしろかった、すばらしかったという感想をいただいた。今日になってもまだ感動が続いている、という話をゼミ生からも聞いた。
私はずっとピアノに張りついて、いわば出ずっぱりの状態だったのだが、まったく苦にならなかった。楽しくてしかたがなかった。

昨日の演目を書いておく。

1. 夏目漱石「夢十夜」より「第三夜」の群読パフォーマンス
山田正美、まぁや、瀬尾明日香、玻瑠あつこ
2. 菊池寛「形」
瀬尾明日香
3. 宮澤賢治「いちょうの実」
山田みぞれ
4. 水城ゆう「階段」
玻瑠あつこ
5. 怪談「皿屋敷」
まぁや
6. 太宰治「女生徒」より
嶋村美希子、照井数男
7. 水城ゆう「初霜」
しまだなおこ
8. 夏目漱石「蛇」
野々宮卯妙

「1.」は大変息の合った、すぐれたパフォーマンスだった。私からも再演希望。
「2.」はテキストを読んでもらえばわかると思うが、人の「形」が相手にどのような影響を与えるのかを書いた時代もの。それを瀬尾ちゃんがファンシーなワンピースを着て読み、途中でそれを脱いでお客さんに「形」とは何か、という命題を付きつける斬新な二重構造のパフォーマンスで表現。
「3.」は今回のワークショップが初朗読のみぞれさんが、なにも飾らない、なにもたくらまない、無垢な朗読で全員を魅了した。
「4.」は大阪弁をところどころで交えたり、別の出演者をからませたり、小道具にクイックルワイパーを使ったりと、アイディアいっぱい、動きいっぱいの「楽しい怪談」となった。
「5.」は定番の古い怪談を、なんとゴスロリファッションで決めたまぁやが、これもまぁやからのリクエストで音楽もゴシック調のオルガンサウンドで付けて、日本ではなく西洋風のテイストで上演して、斬新きわまりなかった。
「6.」は若手ふたりによる、もはやユニットとして(くやしいけれど)息の合った観のあるパフォーマンスを、照井くんによれば「いいふうにでたらめにやれた」という目の離せないスリリングに見せてくれた。
「7.」は14歳の少女の思春期の複雑な心情を描いた作品だが、中学生の娘さんの制服をこっそり借りだしてきて着込んだなおさんが、動きまわるほどに時間をさかのぼって14歳にタイムスリップし、思春期の心情を吐露する朗読を痛々しく表現してくれたのがすばらしかった。
「8.」はバロック朗読第一人者が重厚に歪んだ朗読をスタートしたと思いきや、途中から自由自在にピアノとのガチンコセッションを繰り広げ、その実力を存分に見てつけてくれた最高クオリティのパフォーマンスであった。

残念ながら、ビデオカメラの不調で、その記録は残っていない。
来場いただいた方の目には焼きついていることだろう。ライブとはそういうものだ。
これらの演目は、もう少し観客にとってよい条件で再演できないか、と思っている。現時点で、私と出演のみんなとこの日の観客による、最高傑作だからだ。
(演出:水城ゆう)

夏うふ&読んで歌うコンサート@さいたまが終了

昨日、埼玉新都心にある埼玉県障害者交流センターのホールで、「読んで歌うコンサート」をおこなってきました。
現代朗読協会のゼミ生でもある「浦和区市民活動ネットワーク公認団体・アーツ&ケア・コミュニティ」の日榮さんの主催で、私と伊藤さやかによる音楽ユニットOeufs(うふ)と、現代朗読協会の野々宮卯妙、照井数男とで、歌と朗読のコンサートをおこないました。

30人くらいの方がいらしてくれて、皆さん、熱心に最後までお付き合いくださいました。
途中、宮澤賢治の「双子の星」の朗読パフォーマンスもおこなったんですが、20分以上のかなり長い演目にも関わらず、最後までしっかりと聴いていただきました。
小さなお子さん連れのお母さんがたもいらっしゃいました。
終わってから、抱きつかんばかりにして握手を求めてこられたお年寄りもいらして、私も大変楽しかったです。

繭世界

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   「繭世界」

指先からつむがれた透明な音が長     私は生まれつつあった。
い尾を引いてからたちの刺にから     同時に死につつあった。
みつき真っ青な空の雲を誘惑する
梅雨が明けたばかりの夏の繭。き     世界は開かれつつあった。
らりと眼のすみを横切るのは塩辛     同時に閉じられつつあった。
蜻蛉か青条揚羽かふと顔を向ける
と自転車がもんどり打って倒れよ     闇に光が射しこみつつあった。
うとしていた繭。幾重にも連なっ     同時に闇に閉ざされつつあった。
ていつまでも打ち寄せてくる波の
向こうに見えるのは外洋航路に向
かうコンテナ船の色とりどりの繭。    我々は時間の軸を直線的に生きる
あなたは眼を閉じ身体を丸め折り     わけではない。
曲げた脚を両手で抱えるようにし     時間はからまりあった糸のように
ている。あなたが目覚めているの     もつれ行きつ戻りつしている。
か眠っているのかはあなた自身に     昨日は今日であり、今日は昨日で
すらわからない。閉じた眼の奥で     もある。
線香のようにイメージが交錯する。    昨日の出来事はまだ起こっていな
濡れたアスファルトの上をどこま     いことでもあり、明日の出来事は
でもつづいて伸びる烏の切断され     すでに起こっていることでもある。
た首から流れ落ちた赤い繭。これ
は考えているのか、それとも夢見
ているのか、あるいは幻覚なのか。
あなたは自分が何者なのかは知ら
ないが、ここに来る前にいた場所     津波は来たのかもしれないし、ま
のことはぼんやりと思い浮かべる     だ来ていないのかもしれない。
ことができる。青い海。青い空。     これから来るのかもしれないし、
打ち寄せる波。海岸線を不規則に     すでに来てしまったのかもしれな
区切る岩山の上には沖からの強い     い。
風で斜めにかしいで生えている細
長い松の木が何本か見えている。
波打ち際を歩いていたような気が
する。貝殻を拾い集めていたよう
な気がする。巻貝のからっぽの口     からまりあった糸が作る境界で、
を耳に押し当ててみたような気が     死者と生者が交錯する。
する。あなたは海が好きだったよ
うな気がする。しかしあなたが生
まれたのは海の見えない土地で、
いつも四方を山に囲まれたくぼん
だ場所だったような気がする。太     これは幻視なのか、それとも現実
陽は東にそびえる山脈の高い位置     なのか。
から遅くのぼり、西にも連なる山
々の高い場所に早く沈んだ。夏で
も一日は短く、そのくせ風も吹か
ずやたらと暑い土地だった。海の
近くに住んでみて、太陽が出てい     すべてが不確実なことをだれもが
る時間が長いにもかかわらずいつ     知っている。
も風が吹いて涼しく、見晴らしが
よいことにおどろいた。空がこん
なに広い場所があるということを
あなは知って驚いた。あなたはこ
の地に住むことを決めたような気
がする。それを後悔してはいない。
あなたは自分が何者でどこから来
たのか、どこへ行こうとしている
のかもわからない。そもそもどこ
かへ行く必要があるのだろうか。
あなたはいつからこの繭のなかに     どこかでだれかかが繭をつむいで
いるのかもわからない。だれかに     いる。
試されているのか。だれかに観察
されているのか。だれかに飼われ     我々は時間軸の糸によって繭のな
ているのか。そもそも人間なんて     かにからみとられていく。
そのようなものでどちらでもかま     いまはまだ蛹ですらない未熟で愚
わない。ふいにはっきりした思考     かな存在だ。
があなたの前頭葉に浮かぶ。同時 
に、ここへ来る前にあなたが見て
いたことを思い出したような気が     我々愚かな芋虫がこざかしい知恵
する。赤い血で染められたアスフ     を振りかざし、あたりをいくばく
ァルトがでたらめなダンスを踊り     か汚したところで、繭をつむぐ者
烏の首をはねた電線が喉を病んだ     がなにを気にするというのか。
テノール歌手のように歌っていた。
四角い木綿豆腐が腐って爆発し腐
臭をあたりにまき散らしていた。
溶岩のように熱く重い水に巻かれ
ながらあなたはそれを見ていたよ
うな気がする。水は時間そのもの
でありあなたはそれにからめとら
れてこの繭のなかへとやってきた。
もはや生きているのかも死んでい     もう眠ろう。
るのかもわからないしそんなこと     眠ってしまおう。
はどちらでもかまわない。ただい
まはもう時間のなか深いどろどろ     暖かな繭の奥深くで、どろどろの
の眠りへともぐり降りていくばか     液体に満たされた蛹になってしま
りだ。あなたのなかからなにか生     おう。     
まれてくるかどうかはだれもわか     
らないしそこにはもちろんあなた     生まれつつあると同時に、死にゆ
はもういない。             く存在になろう。
                              (おわり)

(一行40字以上表示できる画面でお読みください)

帰り道

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  「帰り道」

 夜の帰り道
 線路脇で星空を見上げるのが癖になった
 東京の空は明るくて
 星はいくらも数えられない
 遠いふるさとの空には数えきれない星がある
 電車が通過する音を聴きながら
 そんなことを思う

〈地の光は絶え
 築けしものも流れた
 多くの魂が去り
 幾万の涙が流れた〉

 月のない夜
 春が去っていく夜
 かすかな星明かりをさがして
 失われたものを思う

 それでも風は吹き
 波は打ち寄せ
 木々は芽吹いて青々と茂る
 それでも星は輝き
 夜明けはやってくる
 それでも人々は生き
 涙は笑顔に変わる

 朝になれば線路脇では
 ヒバリがさえずるし
 ハナミズキが咲きかけている
 紫陽花さえもうじき咲きそうだ

帰り道

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  「帰り道」

 夜の帰り道
 線路脇で星空を見上げるのが癖になった
 東京の空は明るくて
 星はいくらも数えられない
 遠いふるさとの空には数えきれない星がある
 電車が通過する音を聴きながら
 そんなことを思う

〈地の光は絶え
 築けしものも流れた
 多くの魂が去り
 幾万の涙が流れた〉

 月のない夜
 春が去っていく夜
 かすかな星明かりをさがして
 失われたものを思う

 それでも風は吹き
 波は打ち寄せ
 木々は芽吹いて青々と茂る
 それでも星は輝き
 夜明けはやってくる
 それでも人々は生き
 涙は笑顔に変わる

 朝になれば線路脇では
 ヒバリがさえずるし
 ハナミズキが咲きかけている
 紫陽花さえもうじき咲きそうだ

祝祭の歌

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—– MIZUKI Yuu Sound Sketch #78 —–

  「祝祭の歌」

 その時 きみは見たか
 揺れ動くビルを
 くずおれる家屋を
 うなりをあげる電線を
 ひび割れる大地を
 波打つ海を
 押し寄せる海水を

 その時 きみは聞いたか
 人々の悲鳴を
 破壊の音を
 風を切り裂く音を
 地割れの響きを
 とまどいと
 怒りの声を

 悲劇の彼岸の
 それは祝祭だった
 大地の歌と
 ことほぎの踊りだった
 あらゆる命を呑みこみ
 死をもたらし
 それでも祝祭として
 大地は踊った
 なぜならそれは 何万年
 何億年とつづく 地のいとなみなのだ

 人が築いたほんの数千年の文明
 ほんの数百年の構造物
 ほんの数十年の技術
 大地の踊りの前に
 あっけなく崩れさった

 浅はかな技術が 大地を汚し
 世界に永く闇をもたらす
 そんなことすら 大地は気にも止めない
 悠久の時のなかで
 ゆっくりと激しく わずかずつ大きく
 ただ踊りつづけてきた

 私たちが見るのは 神の罰ではない
 私たちが聴くのは 大地の怒りではない
 私たちが見るのは ことほぎの踊り
 私たちが聴くのは 祝祭の歌

 私たちも また
 よろこびながら
 嘆きながら
 怒りながら
 悲しみながら
 ことほぎの踊りをおどり
 祝祭の歌をうたおう
 大地とともにあることを
 悠久の時の流れのなかで
 祝おう

東四つ木デイサービスセンターで音読ワーク

葛飾区の東四つ木デイサービスセンターに、出張音読ワークに行ってきた。
ゼミ生の朱鷺さんが『音読・群読エチュード』を買ってくれて、それをデイサービスセンターの所長さんに見せたところ、「これはおもしろい」といっていただき、所長さんも一冊買ってくれた。それがきっかけで、実際に私が行って、皆さんと音読ワークをやることになったのだ。

行ってみると、とても活気のあるにぎやかなセンターであることにまず驚いた。
朱鷺さんもおられた。お会いするのはひさしぶりである。といっても、いつもSkypeではお声を聞いているのだが。

さっそくワークをやる。
お年寄りの方が4、50人くらいだろうか、それぞれテーブルを囲んでくつろいでおられた。
近刊の『音読・群読エチュード』からいくつかのエチュードを選んで、職員の方もいっしょにやる。私のほかに、現代朗読協会の野々宮がアシスタントで来ている。
まずは宮沢賢治の「星めぐりの歌」。最初はいっしょに声を出して詩を読み、そのあと「質問と返答」のエチュード。
こちらでは音読ワークはあまりされたことがないということで、その時点ではまず少しとまどわれていた方もいたようだが、リズム読みのエチュードになると皆さん手拍子でノリノリになってきた。リズム読みのエチュードで使ったテキストは、ロバート・ブラウニングの「春の朝」という詩を上田敏が訳したもの。
最初は手拍子で、そのあと私がピアノを弾いて、全員でひとつの音楽を奏でるように音読をしてもらった。

やっている途中から、皆さんの表情がどんどんイキイキしてきて、眼も輝いて、あちこちから声があがってくるのが、私も楽しかった。
最後は皆さんもよく知っている唱歌「早春賦」や「花」「さくらさくら」を一緒に歌った。
所長の森さんや職員の方もとても喜んでくれて、行ったかいがあった。私もとても楽しく、勉強になった。森さんからは「お年寄り向けの本も書いてほしい」といわれた。その際にはサポートしてくれるそうだ。ありがたい。ちゃんと考えてみることにしよう。

この音読ワークに興味のある方は、気軽に声をかけていただけたらと思う。
子どもだけでなく、お年寄りにもとても有効であることがわかったし、現代朗読協会でやっているように大人にも大変役に立つエチュードなのだ。
(演出・水城ゆう)

初恋

©2011 by MIZUKI Yuu All rights reserved Authorized by the author

—– 朗読パフォーマンスのためのシナリオ —–

  「初恋」

 聞いてる? そこにいるの? いいの、わかっているの、あなたがそこにいるのは。なにもいわなくていいわ。なにもいわなくていいから、それより私の話を聞いて。お願いだからそこにいて、私の話を聞いて。でもいいの。あなたがそこにいてくれようがくれまいが、どっちみち私はこの話をするんだから。この話をしなければ私はたぶん明日まで耐えられないでしょう。ここにこのままじっとして、このことをだれにも話さないまま明日の朝を迎えるなんて考えられない。聞いてる? いいわ、聞いてくれてるのね。なにから話しましょうか。そう、最近私、「神様なんかいない」という本を読んだの。神様というのは人間が作り出した妄想だっていうのよ。たしかに私も神様なんてそれほど信じてはいなかった。だってそもそも私はクリスチャンでもないし。といって仏教徒というわけでもない。もちろんムスリムでもないし、ゾロアスター教徒でもないわ。両親の葬儀は仏式でやったけれど。でもそれは、両親が亡くなったとき、親戚の人たちがよってたかってうちの先祖代々の浄土真宗のやり方で段取りをつけてしまったからだわ。私はなんにもしなかった。もちろん死んだ両親もなにもしなかった。そもそも死んだ両親が浄土真宗を信仰していたかどうかもあやしいものだわね。仏様の話じゃなくて神様の話だった。いえ、どちらでもおなじことね。ようするに宗教なんて人類の妄想だし、それを利用してうまく立ちまわって世界を支配したりお金をたくさん集めたりする人が何千年もいつづけてきたっていうこと。そういう本を読んだのよ、最近。立派な科学者が書いた本だった。なるほどと思った。でも、こんなことがあると、神様なんて自分の都合のいいときにしか信じない私でも、ひょっとして本当にいるのかもしれないと思うことがあるわ。気まぐれでいたずらな神様がね、私のことをからかっておもしろがってるんじゃないかって思えるのよ。そう思わなきゃ今回のことなんて信じられない。こんなことが自分の身に起こるなんて、何十年も生きてきて想像したこともなかった。何十年。そう、私は何十年も生きてきた。正確にいえば、七十七年生きてきた。この世に生まれ落ちてから、なんてこと、そう、七十七年もたってしまった。もう立派なおばあちゃんだ。だれが見たって白髪の、皺くちゃの、腰の曲がった、シミだらけの、年老いた老婆だ。十七歳の頃は自分が七十七の老婆になるなんて想像もできなかった。そうでしょう? あなただってそうでしょう? 十七歳どころか、五十歳のときだって、七十七の老婆になるなんて考えられなかった。五十のときにはまだ自分が十七歳のような気がしていた。身体だって元気だし、そりゃあ確かに十七歳のときみたいに颯爽と森を駆け抜けたり、波を切って泳いだりはできなくなっていたわ。でも、心は十七歳のときとなにも変わってはいなかった。十七歳のときとおなじように、かぐわしい風に産毛が逆立ったり、満天の星に胸が震えたりした。それはいまだってそう。心のなかはなにも変わっていない。変わったのは身体だけ。髪はハトがついばんだように白くなり、肌は釣りあげられたタコのようにゆるみ、腰は強風にあおられたように曲がってしまった。それは悲しいことだけれど、耐えられないほどの悲しみではない。だって、そんなふうに年老いていくのはなにも私だけではないのだから。私とおなじようにほかの人も、いえ、ほかの人とおなじように私も、身体はゆっくりと年老いていって、やがては耐用年数の限界が来るというわけ。それはすべての人間の運命だから、悲しいことではあるけれど、耐えられないというわけでもない。わかるでしょう? 耐えられないのは、私の身体のなかにはまだ十七歳の心の私がいるのに、身体だけが朽ちていって、十七歳の私もついには居場所がなくなって、身体から追いだされてしまうということ。追い出されてどこに行くのかって? どこにも行く場所なんてない。行くあてなんかない。だから、十七歳の私は消滅するしかない。消えてなくなるしかない。まだ十七歳なのに。ううん、天国なんて信じちゃいない。あの世とか、天国とか、来世とか、生まれ変わりとか、私は信じちゃいない。さっきもいったけれど、神様なんていないと思う。都合のいいときにだけ神様にお祈りして、お祈りが通じたと思ったこともあるけれど、本当は神様なんか信じちゃいなかった。あの世なんてないし、神様もいない。身体が朽ちて滅びれば、私の心もなくなってしまう。それだけ。でも、こんなことがあると、ひょっとして神様はいるのかもしれないと思うのよ。それもとびっきりいたずらな神様がね。ああ、そう、あの人のことをいっているのよ、私は。あの人。彼。坊や。いえ、だめよ、その呼び方はだめ。坊やなんて呼んではだめ。私のいい人。愛する人。私の大事な人。私の命より大切な人。そうよ、私の命より大切なんだわ。私より彼のほうが長く生きることは、よほどのことがないかぎり確実なんだから。なにしろ、彼はまだ二十二なんだから。二十二、二十二。二十二歳。私の二十二歳はどんなだったかしら。もう思い出せないくらい昔のことね。いまから何年前のことかしら。いやだ、五十年以上前のことなのね。五十五年も前のことだわ。ということは、私と彼とは五十五歳離れているということ。私がいまの彼の年齢だったとき、彼はまだこの世に生まれていなかった。私が五十五歳になったとき、彼がやっと生まれてきた。五十五歳年下の人。そんな男性から求婚されるなんて。なんてことかしら。なんということなんでしょう。彼から求婚されたときにはほんとうに驚いたわ。だってそうでしょう。夢かと思った。夢じゃないとわかったら、今度は彼の頭がおかしくなったんじゃないかと思った。それで彼にそういったのよ。頭がおかしくなったんじゃありませんこと? って。そしたら彼は、そうかもしれません、あなたに夢中のあまり頭がおかしくなってしまったんです、っていうのよ。だったら、結婚してなんて冗談はいわないでくださいな。心臓に悪すぎます。いえ、冗談なんかじゃありません。僕は真剣なんです。あなたに夢中なんです。頭がおかしくなったというのはそういう意味です。

 まだあげ初《そ》めし前髪の
 林檎のもとに見えしとき
 前にさしたる花櫛の
 花ある君と思ひけり
 やさしく白き手をのべて
 林檎をわれにあたえしは
 薄紅《うすくれなゐ》の秋の実に
 人こひ初めしはじめなり
 わがこゝろなきためいきの
 その髪の毛にかゝるとき
 たのしき恋の盃を
 君が情けに酌《く》みしかな
 林檎畠の樹《こ》の下《した》に
 おのづからなる細道は
 誰《た》が踏みそめしかたみとぞ
 問ひたまふこそこいしけれ

 まったくどうかしてる。だれだってそういうと思います。けれど本当なんです。事実なんです。あなたのことを愛しています。真実なんです。僕と結婚してくれなきゃ僕は死んでしまいます。そこで私は彼にいったのよ。あなた、自分のいっていることをちゃんとわかっていらっしゃるの、って。人が聞いたらどう思うかわかっていらっしゃるの? わかってますとも。頭がおかしいんじゃないかっていうに決まってます。でも、本当なんです。あなたに夢中なんです。財産目当てなんじゃないかって思われることもわかってます。でも、そんなもの、僕はいらない。財産なんかが目当てじゃない。ただ僕はあなたと結婚したいだけなんです。彼が財産目当てじゃないことは確かよ。だって私、お金に困っているというわけじゃないけれど、けっしてお金持ちでもないもの。私が持っている財産なんかたいしたことない。親が残してくれた不動産が少し。贅沢さえしなければ不自由なく暮らせるだけの収入はあるわ。でもたいした額じゃない。こうやって老後を不自由なく暮らせるだけの資産があることはありがたいと思ってる。でも、人からうらやまれるほどのものじゃない。年下の男性からねらわれるほどのものじゃない。もし結婚したとして、私が先に死んだら、それはほとんど確かなことだけれど、私の財産を処分したとしてもほとんどまとまったお金になんかならないはず。そんなものが目的で彼が私に求婚するなんてことはありえない。彼が私と結婚して得るものは、彼が失なうものに比べればとてもみみっちいものよ。彼がなにを失うのかって? それはたくさんのものを失うはずよ。この結婚に反対する家族や親族を失うかもしれない。友だちだって失うかもしれない。頭がおかしくなったんだっていわれて、仕事だってうまくいかなくなるかもしれない。なにより、あんなばばあと結婚するなんてといっぱい陰口をいわれて、きっとたくさん名誉を傷つけられるわ。彼が失うものはとても多いと思うのよ。私はもちろん彼にそういったわ。でも彼はきかなかった。どうしても結婚してほしいといってきかなかった。でなければ私の前で死んでしまうともいった。私は折れたわ。そして、あなたも知っているように、そう、明日が私たちの結婚式よ。結婚式。私の初めての結婚式。彼も初めてよ。私たちふたりとも結婚するのは初めてなのよ。そういう意味ではおなじ経験をふたりでするのよ。ただ年がとても離れているだけ。彼は初めての結婚だけれど、これまでに何人かは恋人がいたというわ。そのことを彼は私に正直に話してくれた。でも結婚するまでにはいたらなかった。どの相手とも数ヶ月から数年で別れてしまった。そんなことを話したあとに、彼は私のおそれていた質問をしたわ。あなたはどうなんです? あなたにもさぞかし多くの恋人がいらしたんでしょうね。もしよければ話してくださいませんか。私は答えたわ。そんなこと、あなたに話したくないわ。私のつまらない思い出なんかどうでもいいの。これから作っていくあなたとの時間のほうが大切じゃないこと? 彼は納得してそれ以上質問しようとはしなかったけれど、私は胸が痛かったわ。なぜかというと、私はどうしても彼に話せなかったから。隠し事をしたわけではないけれど、話さなかったのは隠し事をしたことと同じだわ。彼はまだ知らないのよ。私にとって彼が初めての人だということを。いえ、結婚のことじゃないわ。男の人のことよ。私はこれまでひとりも恋人がいなかったのよ。思いを寄せた人はいたわ。そりゃあ私だって好きになった人はいたわ。ひとりやふたりはいたわよ。でも、どの思いもかなわなかった。それから、求愛されたこともあったわ。自慢するみたいだけど、正直にいえば、何人かいたわ。片手の指では足りないくらい。でも、だれの求愛も私は受けなかった。私が好きでもない人の求愛をどうして受け入れられるというの? でも、今度は違う。彼から求婚されたとき、私はたしかに私のほうも彼のことを愛してしまっていたことに気づいたの。そうなの、待ちに待った愛だわ。ただ、その時期があまりに遅すぎただけ。私は苦しいの。あなたにこうやって打ち明けながらも、苦しさに変わりはない。このまま死んでしまいたいくらい苦しい。明日のことを思うと、とくに明日の夜のことを思うと、どうしていいのかわからない。彼は結婚式が終わってふたりきりになったら、私をどうするつもりかしら。まさかこんなおばあちゃんをどうにかしようなんて思ってないと思うけれど、わからない。二十二歳の男の子といっていいような若い男性の考えていることなんて、私には想像もつかない。もし彼が私を求めてきたら、私はいったい……いったい、どうすればいいの。ねえ、どう思います? そのとき私はどうすればいいと思います? あなたにこんなことを聞いても無駄ですわね。あなたの問題ではないんですもの。彼と私の問題なんですから。ときどき、こんなふうに、だれにも答えることができない自分の問題について自問自答していると、私は本当に孤独を感じるの。ひとりぼっちだという気がしてくるわ。もっと若くに愛し合える人に出会って、連れ合いができていればよかったのに。もしかすると子どもも何人かできて、いまみたいにひとりぼっちということはなかったかもしれない。こうやってひとりでいると、私はまるで自分が灯台守にでもなったように感じることがあるわ。孤島にただひとり、灯台を守っている女。この家のまわりに本当はなにもなくて、ただ荒地と岩の上に立っている灯台であって、私はそこでだれの訪問も受けず、どこにも出かけることもなく、ひとりで灯台を守っている。灯台のまわりには、街ではなく海が広がっていて、いまの時期だと寒い北風がただびゅうびゅうと吹きつけてくるだけ。たまに渡り鳥が羽を休めに降りてくることはあるけれど、その鳴き声すらも風にかき消されて灯台の中までは聞こえない。灯台に明かりを入れる時間になってたまにガラス窓の外に目をやれば、遠くを貨物船が通りすぎていくのを見ることもある。でも、その船はただ通りすぎるだけでここへはやってこない。私はだれとも言葉をかわさず、関係も持たず、灯台でひとり暮らしながらゆっくりと時間がすぎて、ゆっくりと自分が年老いていくのを感じているだけ。そんな自分をさびしいと思ったことは何度もある。いまいったように、もっと若いころに恋人ができて結婚し、家族を持っていたらどんなに楽しかったろうと想像したことは何度もある。けれど、最近はさびしいことをあまり嫌だと思わなくなった。たしかにさびしいことはさびしい。でも、結局のところ、人ってなんのために生きているの? 神さまがいるかどうかは知らないけれど、家族がいようが連れ合いがいようが、結局のところ死んでしまえばただの動かない肉のかたまりになってしまうだけ。腐ってしまわないうちに急いで埋めるか焼くかして、残るのはわずかな骨ばかり。なかにいた私は追いだされて消滅するだけ。生まれる前だってそうだったんでしょう? 私がいったいどこからやってきたのか知らないけれど、生まれる前にいた場所に帰っていくというだけのことでしょう。つまり、無に。そうだというのに、恋人がいるとか結婚しているとか、家族がいるとか財産があるとか、いったいどんな関係があるというの。私はひとり。この島の最後の灯台守の女。それでいいと思いはじめていた。寂しいことは寂しいけれど、心は安らかだった。このままこうやって静かに年老いて消えていくことに納得していた。私の仕事はただ、灯台に明かりをともしつづけることだけ。それなのに、あの人が現れてしまった。私の静かな生活は一変した。私の灯台に別の人がやってきた。そして私と結婚したいといいだした。私はそれを受け入れるしかなかった。いままでただの一度もだれかを受け入れたことなんてないのに。私はこれからどうなるんでしょう。彼から求められてなにかを与えるなんてことができるのでしょうか。七十七の私が十七の心をいまだに持っているように、彼だってきっと二十二だけれど十七の心を持っているに違いないと想像したこともある。そしたら私たちおなじことになるでしょう。私たち、年齢と外見こそ違うけれど、おなじ十七歳同士じゃない。だったら楽しくやっていくこともできるかもしれないわ。でも、もし彼が十七の心を持っていないとしたら? 彼はちゃんと年齢相応に二十二歳の青年の心を持っているとしたら? それとも、彼はずっと成長が早い人で、もっとずっと大人になってしまっているのだとしたら? たとえば三十歳に。あるいは四十歳に。それとも五十歳に。もし彼がそうだとしたら、私はとても耐えられない。彼は私を求めるだろうか。それってどんな感じなのだろうか。私はこれまで一度も男の人に触られたことがない。抱かれたことがない。男の人に触られるってどんな感じなのだろうか。それが女にとってとても幸せなことだというのは話には聞くけれど、想像もつかないし、それって本当のことだろうか。映画のなかで男に抱かれる女たちは、皆陶然とした表情を浮かべているけれど、あなたはきっとあんな顔はできない。あなたの顔はきっと苦痛にゆがむだろう。そんなあなたを見て、彼は失望を覚えるだろう。あなたの顔が苦痛にゆがまないとしたら、それはおそらく嘘だろう。あなたの身体は心に反して嘘をまとうことを知っている。あなたはそうやって生きてきたのだから。あなたの心は身体という牢獄のなかに閉じこめられている。でももうすぐそこからも解放されるだろう。なぜならあなたの身体の耐用年数がもうすぐやってきて、電気炊飯器のように壊れて、ガラクタ置き場で朽ち果てていくのだから。そのとき、あなたの心は行き場所を失って消滅する。あなたは明日、私との結婚式を迎える。それは嘘をまとって生きてきたあなたの、最後の、最大の嘘なのかもしれない。あるいはあなたの嘘を最後に追い払うラストチャンスなのかもしれない。私に求められたときあなたはただ自分を私の前に投げだせるだろうか。あなたは抵抗するだろうか。逃げるだろうか。それともすべての嘘を脱ぎすてて私の前に身を横たえるだろうか。しかしそんなことはどうでもいいことだ。私があなたを求めるのは、自分自身の姿をあなたに見るからだ。あなたが生き、うろたえ、あらがい、嘘をまとい、満足したふりをし、善をなしたつもりで笑みを浮かべ、裏切り、裏切られ、疑いながら、いまそこにいる。それはほかならぬ私自身の姿でもある。老いさらばえ、やがて朽ちていく。それが私自身の姿なのだ。私はあなたに私を見る。すべてを見る。だから私はあなたを求める。あなたは私自身なのだ。

自己同一性拡散現象

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—– MIZUKI Yuu Sound Sketch #77 —–

  「自己同一性拡散現象」水城ゆう

 夢を見ていたようだ。
 という書き出しはよくあるが、実際に夢を見ていたのだ。
 しかし、このところ目覚めるといつも感じるある違和感のせいで、夢の内容を一瞬にして忘れてしまった。
 だから最近見た夢をまったく覚えていない。
「あなた、そろそろ起きてくださらない?」
 リビングのほうから妻の声がする。朝食のしたくをしているらしい。その気配で目がさめたのかもしれない。
 いつごろからだろうか、この違和感を覚えるようになったのは。
 なんといえばいいのか、つまり、いま夢から覚醒してベッドから起きあがろうとしている自分は、昨夜眠りについた自分とおなじ人間なのかどうか、確信が持てないのだ。
 たしかに昨夜眠りにつくときには、この身体であった。この左肘のところ。古い傷がある。これは小学生のころ、スキー場でころんでほかのスキー客にぶつかって怪我をしたときの残り傷だ。たしかにこの身体は私の身体だ。
 いや、私の身体にこの傷があるという記憶そのものは、私の記憶なのだろうか。小学生のときにスキー場に行った記憶。そこでスキーを楽しんだ記憶。転倒した記憶。ほかのスキー客にぶつかり、そのスキー板が跳ねかえって私の左肘を直撃した記憶。痛みと出血の記憶。いまでも生々しく脳裏に浮かべることができる、その記憶。それが私の記憶であるという証拠はどこにあるのか。
 夢で見たことを現実の起こったこととして記憶しているのかもしれない。あるいは、肘の傷はスキー場でのことではなく、だれかからスキー場での怪我だと教えこまれたことを自分の記憶と思いこんでいるのかもしれない。
「早くしたくしないと会社に遅れるわよ、あなた」
 妻が寝室をのぞきこんで、いった。
 私は妻の顔を見る。
 たしかに私の妻だ。いや、私の記憶は、この女性の顔や身体つきの特徴を自分の妻であると私に知らせている。
 しかし、この私の記憶はどこから来たのか。
 この記憶を私のものだと確信している私そのものは、どこから来たのか。そもそもこの身体のなかに最初からはいっていたのか。昨日の自分と今朝の自分がおなじ自分であるという証拠はどこにあるのか。
「なによ、じろじろ見たりして。わたしの顔になにかついてる?」
 違和感が強まっている。
 私が見ているのは、たしかに私の妻の顔だ。姿形だ。手のなかには彼女を愛撫するときの感触まである。しかし、それが私の記憶であるという実感がない。
 この感触はだれか別の者の記憶なのではないか。いま見ている妻の顔、いや妻の顔という画像記憶は、私以外の別のだれかの記憶なのではないか。それがなんらかの原因でそっくりそのまま私のなかに植えつけられたのではないか。
 だとしたら、私の本当の記憶はどこに行ったのか。いまごろ別のだれかのなかに私の記憶が植えこまれ、彼もまた違和感をおぼえながら自分の妻の顔を見ているのではないか。私の本来の記憶にある本来の妻の顔はどんな顔なのだ。そしてどんな感触なのだ。
 私はベッドからのろのろと起きあがった。
 私の記憶が妻だと申し立てている女はまだ不審そうな顔つきで私を見ている。
 私は女にむかって手をさしだした。
 女は反射的に私の手を握りかえした。
 私は女の手をつかんで、自分のほうに引きよせた。
「ちょっと、なに、あなた」
 おどろきながらも、その声にはわずかな喜びが含まれていた。私は女の身体を両腕に抱きしめた。
 この感触も、私の記憶のなかにあるものと合致している。たとえだれかの記憶だったとしても。
 突然、私のなかから聞いたこともない言葉が浮かびあがり、私の口から出てきた。
「一切はただ、心のつくりなり」
 だれがそういったのか、私にはわからなかった。私はたぶん、私ではなく、妻もまた妻ではなく、同時に私は私であり、妻は妻であるのだ。すべては私の心のおもむくままにあるということか。
 おだやかな喜びにつつまれていくのを感じた。柔らかな女の身体の感触を楽しみながら、私は時間を忘れていた。

沈黙の朗読――記憶が光速を超えるとき(3)

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—– 朗読パフォーマンスのためのシナリオ —–

 ちゃんと思いだした。子どものころから物忘れがひどかった。小学生のある日、ランドセルを忘れて手ぶらで学校に行った。母親が届けに来て、教室の入口で、同級生たちが見ている前で、こっぴどく頬をはたかれた。いまのいままでそんなことを思いだしたこともなかった。無意識の奥底にしまいこんでいた思いだしたくない記憶。たくさんの思いだしたくない記憶が、無意識の奥底にしまわれ、忘れさられている。物忘れをした恥ずかしい記憶がたくさん、記憶の奥底に忘れさられている。蛇口のパッキンを買わなければ。

 私は歩きはじめる。おっさんどこへ行くんだよというだれかの声が聞こえる。腕を強く引きもどされる。

 都会の学校に進学し、都会の会社に就職し、都会で結婚し、都会で家を持ったけれど、いつも思いだすのは野山のことだった。軒先に作られた燕の巣を見つめながら、畑の上の草はらで見つけた雲雀の雛のことを思っていた。街を歩きながら、風とともに山道を駈けおりたことを思い出していた。ひとり渓流をさかのぼり、岩陰にひそむヤマメを狙ったことを思い出していた。

 列車が通過いたします。危険ですので、黄色い線の内側までさがってください。
 列車が通過いた   します。危険です    ので、黄色い線       の内側
         までさが
                 ってくだ
                              さい。

 私はどこへ行こうとしているのか。
 そうだ、蛇口のパッキンを買いに行くのだ。
 だれかの怒号が聞こえる。
 腕を強く引かれる。
 私はそれをふりほどく。
 蛇口のパッキンを買うのだ。
 蛇口のパッキンを買うのだ。

 危険ですので。
 黄色い線の内側。

 蛇口のパッキンは死。
 蛇口のパッキンは死。
 死とはなにか。

 あのとき私が見ていたものの話をしよう。
 ランドセルを忘れて親に怒られた私は、その夜、かけっぱなしの梯子を伝って、家の大屋根に登った。
 屋根に寝っ転がって星を見ていると、自分がどこにいるのかわからなくなる。そんな経験はないかい? 自分が丸い地球に張り付いて、寝ているのか、地球にぶらさがっているのか、わからなくなってしまう。
 ちっぽけな地球の表面に張り付いている私。宇宙のまんなかにぽっかりと浮かんでいる地球に張り付いている私。
 地球、太陽系、銀河、銀河団、泡構造、超新星、膨張する宇宙、ブラックホール、ビッグバン、百数十億年のかなた。それが目の前に広がっている。永遠のかなた。
 永遠ってなんだろう。宇宙のはてにはなにがある?
 そんなことを考えていると、なにが原因で親にしかられたのかすっかり忘れてしまう。
 でも、屋根から降りると、まだ怒っている父がいたし、父に気を使っている母もいたし、自分は怒られまいとこっちをうかがっている妹がいた。
 そうやって地表の現実のなかで、今日まで生きてきた。
 宇宙のなかのちっぽけな現実。喜んだり、悲しんだり、疲れたり、発奮したり、裏切られたり、愛したり、お金の心配をしたり。
 この命も、いずれ消えていく。
 死なない人はただのひとりもいない。偉大な人もちっぽけな人も、金持ちも貧乏人も、ひとしく皆、死を迎える。
 沈黙に戻る。

 村を離れ、都会に出たことを後悔してはいない。都会には都会の生活があった。ただ、夜中にこっそり裏口から抜け出し、ひと気のない公園をさまようとき、私の脳裏には谷川から沸き立つように舞い上がる羽化したばかりの蛍の光の渦が見えていた。降るような満天の星が見えていた。

 いま、私は、都会の電車のホームで、だれかにつかまえられ、引きたてられようとしている手を振りほどき、妻にたのまれた水道の蛇口のパッキンを買いに行こうとしている。

 ぼくの身体は軽くなり、ふわりと浮いて舞い上がる。

 そのとき、ふいに私は

    妻の
              名を

                              思いだす。

         青い空
                  と
                          白い    雲

(おわり)

沈黙の朗読――記憶が光速を超えるとき(2)

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—– 朗読パフォーマンスのためのシナリオ —–

 あれは何年前のことだったろうか、その犬の名前はいまとなっては妻の名前と同様忘れてしまったが、愛苦しいゴールデンレトリーバーで、まったく家族同様に暮らしていたのだから、その犬の名前を私が忘れてしまったのはおそらくフロイトがいうところのつらい記憶の番人の仕業に違いないのだが、彼の長い毛足のふさふさと柔らかな体毛の感触ははっきりとした実感をともなってまるでいまでも手をのばせばそこに実体化するがごとく記憶の奥底にしまいこまれていたし、それがトリガーとなってぐりぐりと動くたくましい躍動する筋肉の感触や雨に濡れるととくに強くなる身体のにおいまで実体化するようで、しかしいま私が思いだしているのは彼が悪性のリンパ腺腫でたった六歳で死んでしまったあの朝、まだぬくもりの残っている大きな身体を玄関のコンクリートのたたきから部屋のなかへと運びこもうと抱きあげたまさにそのときの感触でありました。私はその感触を
        なので神聖なことのようにいまでも感じているのであり、悲しみ、喜び、楽しみ、暖かさ、活発さ、冒険、新鮮、安心といったさまざまな感情の記憶とつながっている大切な記憶のトリガーといってもいいのであります。
 それなのに、であります。
 それなのに、であります。
 それなのに、であり    右手に知覚が戻ったのは、私の右手をなにかが強く圧迫しながら強い力で上へと持ちあげようとしていたときであります。私は私の神聖な記憶を無理矢理かなたへと押しやられ、かるい憤りを覚えながら、私の右手に起こりつつあることを認識しようとしたのであります。
 だれかが、何者かが私の右手をつかみ、強くつかみ、握りしめ、そして私の意に反して上のほうに差し上げようとしている。

 私が身体を密着させまいと懸命の努力をしていたところの私の前にいた短いスカートからむちむちした太ももをのぞかせていた女子高校生が首をねじまげて私のほうを見上げ、そう彼女は私よりずっと小柄だったため、私を見るためには下から見上げるような格好にならざるをえず、上目遣いになり、下方から鋭角に私を見上げることになり、視線は下から上へと向かって急角度で突きあげられ、私の目に視線が突き刺さり、私はそれがなにを意味するのかとっさには理解できず、ただ視線を受け止めるばかりで、とまどった私の視線が彼女に伝わったのかどうかすらわからず、彼女は鋭い視線を向け、その視線は怒りや憎しみに満ちているようにも見え、たんなる眼球がなぜそのような感情を表出するのか私には理解できず、眼球ではなく眼球を縁取るところの瞼や眉やそれを取り囲む表情筋が感情を表出しているのかもしれず、また瞳孔の奥の水晶体のさらに奥にある網膜に走る無数の毛細血管の脈動が感情の興奮状態を表出するのかもしれず、そんなことを
      の右手が私の意に反して無理矢理上のほうへと引きあげられていたのでございます。

 ち か ん
 で す こ
 の て で
 す

 電車はいままさに次の駅のホームへとすべりこんでいくタイミングであった。かの女子高校生がそのタイミングを見計らっていたことは明らかであった。私の思考は停止していた。いや、実際には停止していたわけではない。脈絡のある思考が失われていたというべきだろう。私の思考の道すじは脈略のあるストーリーを失い、意味を失っていた。思考が脈略を失ったとき、人は自意識を失う。自分になにが起こっているのかわからず、また自分が何者なのかもわからなくなる。私の右手は女子高校生につかまれていた。女子高校生は私の右手をつかんで肩より高く持ちあげていた。持ちあげたこの手が「ちかん」であると叙述していた。私の手はちかんなのか。ちかんとはなんなのか。なにをもって私の手はちかんと定義されるのか。
 私のまわりがざわめいている。電車はまさに駅のホームに停車しようとしている。電車のドアが開こうとしている。乗客のひとりがいう。こいつを警察に

       突きだすんだ。おれがいっしょに行ってやるよ。若い男の声だ。もうひとりがいう。私も行ってあげる。若い女の声だ。私はふたりの男女に両側からそれぞれ腕をつかまれ、開いたドアから電車の外へと連れだされる。
 電車のドアの外は駅のホームの上であった。駅のホームはまだ真新しい。数年前に路線の複々線化のために駅と線路が高架になり、駅のホームも新しく作りかえられた。どの駅も似たような風景になり、駅名のプレートを確認しなければ

             どの駅なのかわからない

 私たちの、私たちというのは私と私の右手をつかんだ女子高校生と私の両腕をつかんだ男女ふたりの計四人であるが、その私たちの背後で電車のドアが閉まる。振り返ると

      ドアのガラス越しに好奇の色を浮かべた乗客たちの視線が私たちに向けられている。視線が横すべりを始める。ゆっくりと横にすべっていき、しだいに速度をあげる。視線は私の視線から遠くはなれ

  見えなくなる。電車がハイブリッドモーターの音を高めながら       速度をあげる。八両編成の電車が
                ホームから離れていく。一瞬

   最後尾の車両の最後尾の窓から上体を半分のぞかせた車掌と視線が合い、パチン

            という音が聞こえたような気がするが、もちろんそれは錯覚で

         引きこまれるような風圧が私を線路側へわずかに押しやる。

 いい天気だ。

 真っ青な空がホームの上を覆う屋根の間から見える。それを見て、私は記憶を訂正する。あの日が梅雨時のむしむしした日かもしれなかったという記憶は間違いであった。からっと晴れた夏至に近い初夏の日であった。真っ青な空には真っ白な積雲が綿菓子のようにぽこぽこぽこぽこぽこぽこぽこぽこぽこぽっと浮かんでいる。綿菓子の手前を電車の架線が何本かまっすぐに横切っている。雲の背後を架線とは鋭角をなす角度の白い直線が横切っている。飛行機雲だ。飛行機雲だ。私は夏の空が好きだ。私は夏の空が好きだ。私の生まれた土地は田舎の山間部だったが、その夏の空も好きだった。私は夏の空が好きだ。飛行機雲だ。私が生まれたのは田舎のほうの、山が谷でくびれ、せせらぎが川となって平野へと流れこむ、その出口のところだ。小さな村となだらかな山があって、人々は長い年月をかけて山と折り合いをつけながら、段々畑や田圃を作ってきた。私が生まれたのは、コブシや桜が終わり、藤や桐が薄紫色の花を咲かせるころ、山吹が山裾の小道を黄色く彩るころだった。雪解けの名残り水が田に導かれて水平に広がり、空を映してぬるむと、白鷺が冬眠からさめた蛙をついばみ、子どもらはスカンポを噛みながら畦道を駆け抜ける。蛇口のパッキンを買わなければ、と私は思いだす。

沈黙の朗読——記憶が光速を超えるとき(1)

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—– 朗読パフォーマンスのためのシナリオ —–

 私はあの日、あの日というのがいつのことなのか定かではないのだが、夏至を迎えたばかりのように思うし、あるいは梅雨時のむしむしした日だったようにも思うが、とにかく暑苦しかったことだけは確かだったあの日、私がいつものように家を出ようとすると妻が帰りに忘れずにあれを買ってきてねといい、私はそのことがなんのことなのかわからなくて、ところで妻の名前はなんだっけ、間違えて呼んだりしたらとんでもないことになるぞと考えながら、とりあえずおまえと呼ぶ事にしようと決めて、あれってなんだっけなおまえとたずね返すと、私の、名前を思いだせないままの妻は、あらいやだあなたあれほど何度もたのんでたのにだから心配だったのよまた忘れるんじゃないかってと、いつまでも肝心のことを答えようとしないまま私をぐちぐちとなじりつづけるものだから、私の胸のなかにはなにかしらよどんだもの、まるで雨の日の増水した川にひっかかっている流木に腐った葉やらスーパーのレジ袋やら破れたTシャツやらコンドームやらがからみつき茶色くよどんでいるような光景が生まれ、私はなにかをいいかえそうと口をひらくのだがそこから出てくる言葉は私の灰色の大脳皮質までは浮かびあがって来ず、先に私の、名前を思いだせないままの妻が私をぐちぐちとなじるその言葉のつづきで、洗面所の蛇口のゴムのパッキンを買ってきてなおしてくれるっていってたじゃないほらいくらきつく締めてもぽたぽた水が止まらないのをこんなの直すのわけはないといったのはあなたよ覚えてるでしょう、といわれてみればたしかにそのようなことをいった覚えがあるような気がしてきたが、その記憶は本当に私の記憶なのだろうか、それともだれかから、いやつまり私の、名前を思いだせないままの妻からいわれて植えつけられた記憶なのだろうか、あるいは夢で見たことを現実の記憶と思いこんでしまったのだろうか、それだとしたら私の、名前を思いだせないままの妻の記憶も私の夢の記憶を共有しているということになってしまい、それは理屈にあわないというか現実的ではないような気がするが、その時はもちろんそんな考えを振りはらい、とにかく私の、名前を思いだせないままの妻の要求は私に伝えられたわけだからいつもどおり家を出て仕事に向かうことに決めて、わかったよおまえ帰りがけには忘れないように蛇口のパッキンを買ってきて洗面所の水漏れを直してやるからといい残して駅に向かったあの日、あの日というのがいつのことなのか定かではないのですが、夏至を迎えたばかりのように思うし、あるいは梅雨時のむしむしした日だったようにも思いますが、とにかく暑苦しかったことだけは確かだったあの日、ホームにはいつものように、いつもというのがいつのことをさしているのやら自分でもさだかではないまま申しておりますが、ホームにはいつものようにサラリーマンやらサラリーウーマンやら女子高校生やら老婆やらがごったがえしながら電車の到着を待っておりましたあの日、私は私の前にいた女子高校生の短いスカートからのびたむちむちした太ももに視線を落としながら、なぜ女子高校生はたくさんいるのに男子高校生はあまり見かけないのだろう、それは私が女子高校生についつい目が行ってしまい彼女らにばかり注意をひかれてしまうせいであって、男子高校生も確かにいるのに私の視線が彼らを素通りし、結果的に彼らは私にとって存在しないと同様のことになっているという理由からだろうかなどとかんがえておりましたところへ、あっけなく電車が人々をなぎ倒さんばかりの勢いでホームへ、いや正確にいえばホームの間に平行に敷かれた二本のレールの上へと進入してきて、停止線を越えてオーバーランすることもなく、ちらと見えた運転士は私と同年輩くらいの中年男性のようであり、たぶんベテラン運転士でありましょう、すでに何千回となく同じ場所同じ時間に同じように電車を停止させてきたことだろう経験に裏打ちされた一見やる気のない沈鬱な表情を私にかいま見せ、そういえば私はいったい何歳なのだろう、あなた、何歳に見えますか、私?
 エアが抜ける音がする。ぷしゅーうううドアが開く。降りる人はあまりいない。ひとり。ふたり。さんにん。そのくらい。木を植えた人は降りたのか? 降りる人を待ちかねたように、ホームにたまっていた人々はにじにじとホームと電車の間の隙間をまたぎ越え、押し合いへし合い、車両に乗りこんでいくのであります。私もスカートからのびたむちむちした太ももを持つ女子高校生のあとにつづいて車両に乗りこんでいったのであります。
 背後からぎゅうぎゅうぎゅうと車両のなかほどへと押しこまれていきながら、私は私の背中を押しているこの感触が男性のものか女性のものか無意識にさぐっていることに気づくが、私の背中の右の肩甲骨の上のほうに強くあたっているひどく角ばったものはほぼまちがいなく背の高い大柄な男性の拳の甲から手首の関節の外側あたりで、それがあまりに硬くてとんがっているものだから私は痛くてしかたがないのを振り返って文句をいうわけにもいかなくてがまんしながら、同時に私の前にいる小柄な女子高校生に自分の身体をあまりに強く押しつけて密着してしまわないように気をつけているのは、あながち私の気の小ささばかりではないであろう社会的に外部強制された内部要因なのだろうけれど、私は気の小さい人間と人からいわれたことはあるだろうかいやないと思うけれど、しかし正直にいえばどちらかというと気の小さい人間ではあろうと自分では思えるその証拠に、人から頼まれごとをしてそれが自分には不向きな仕事であったり気の向かないことであったりしてもきっぱりといやとはいえないところがあって、そのせいであとあと不愉快な思いをしたり、結局頼まれたことが片付かなくて相手にまで不愉快な思いをさせて信頼を失ってしまったりといったことが子どものころからたびたびあったことを思い返せばそのとおりであるということができるし、いまもまさに私の半分ほども体重がないだろう小柄でひ弱そうな女子高校生を相手に狐の前を通り抜けようとしている兎のごとくびくびくしながら必死に足を踏ん張って身体が密着しないようにこらえていると、発車の合図のピロピロと気の抜けた音楽が鳴り終わりぷしゅーうううとドアが閉まりがたんういぃぃぃんと車体と駆動モーターの音を立てて電車が動きはじめ、密着しあった人々は慣性と加速度の物理法則にしたがっていっせいに進行方向とは逆方向に向かって身体を押し寄せられ、どこかで悲鳴があがるのが聞こえた。
 加速度のおかげで、私の身体は女子高校生の身体からやや離れる。が、ほっとしたのは一瞬にすぎない。加速度で電車の後ろ方向に押しつけられた人々の圧力が、その反動で前方向にすみやかにもどってくる。そして前よりも強く私の身体は女子高校生の身体に押しつけられてしまう。私は左の手に鞄をさげている。鞄は密着した人の身体にはさまれて、しっかり握っていなければどこかに持っていかれそうだ。私は鞄を左の手でしっかりと握っている。右手のことを忘れていた。私は自分に右手があるということを忘れていた。そうなのだ、私は時々、自分に右手があることを忘れてしまうことがある。私に忘れられた右手は存在しないのとおなじだ。切断された私の右手。人は二度死ぬといったのはだれだったか。最初の死は肉体の死。二度目の死は人々から忘れられたとき。これをいったのはだれだっけ。アボリジニの言葉だったか、あるいは仏教の言葉か。それにならえば、私の右手はしゅっちゅう死んだり生き返ったりしているわけだ。ははははは。
 そんなこというなら、最近かけはじめた老眼鏡だってしょっちゅう死んだり生き返ったりしているぞ。ははは、ははは。おっと、右手だ。私の右手。存在を忘れていた私の右手を生き返らせねばならない。私の右手。いったいどこにあるのか。まさか家に置き忘れてきたわけではないだろうな。
 もちろんそんなはずはなく、私の右手は私の右の鎖骨と肩甲骨の延長線上にある上腕骨の関節の部分で靭帯やら筋肉やらら血管やらららリンパ節やららららら神経やららららららによって接続され右肩にぶらさげられているわけで、なにも持っていない右手は下向きになった腕の先に電車の床に向かってくっついているはずなのを私は知覚することによって生き返らせようとするとき、なにかがその知覚の働きをさえぎろうとしているのを感じそれはなにかと思えば大脳皮質のもっとも奥まった部分にしまいこまれてたったいままで一度も意識の表面に浮上することのなかったひとつの記憶であり、それはまるでマルセル・プルーストが紅茶に浸して柔らかくなったプチット・マドレーヌ、プチット、プチット、プチット・マドレーヌ、プチット、プチット、プチット、プチット・マドレーヌ、プチット             マドレーヌの一切れを口に含んだ瞬間に遠い過去の失われた時をよみがえらせたかのような異常な作用が私の前腕部にも起きたかのようで、そのとき私はひとりのタイムトラベラーとして一匹の犬を抱いていた。