世界が眠るとき、私は目覚める

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   世界が眠るとき、私は目覚める

                           水城ゆう

 ゆるやかな登り坂にさしかかると、上向きにスイッチしたヘッドライトの明かりが道とガードレールと山肌をなめていく。
 季節はずれの雪が春の日に溶け、いまはアイスバーンになっている。重量のない軽《けい》のパジェロは四輪駆動モードでもすべりやすく、彼はアクセルのペダルを踏みこみすぎないように注意を払う。
 トンネルの手前でいったん道は平坦になり、信号が点滅している。黄色の点滅の下を抜けるとすぐにトンネルにはいる。彼はアクセルを踏みこむ。
 トンネルのなかは乾いていて、緊張をややゆるめることができる。ダッシュボードのデジタル時計は午前四時十二分を示している。いつもより早いペースだ。昨日の雪の影響を考慮して、今日も冬時間での店着――販売店への荷物の到着となった。今日の店着は午前二時十五分だった。
 トンネルの出口がちかづくと、彼はアクセルをすこしゆるめる。トンネルの向こう側は標高が高いべつの谷の尾根すじになっていて、凍結はさらにすすんでいると思われる。
 スピードをゆるめぎみにトンネルを出ると、スタッドレスタイヤがバリバリと音を立てて路面を踏む。彼はハンドルをしっかりと握りなおす。
 左にゆるくカーブしながらさらに登っていく道をいつもよりゆっくりと走らせる。その先は山のもっとも高い場所にある配達先で、いつもなら快調に飛ばすところだが、今日はそうはいかない。
 このあたりは街灯もまばらで、うっすらと見える稜線の上には星がきらめいている。稜線が見えるのは、新月が近づいてだいぶ欠けているとはいえ月がまだ西に沈みきっていないせいだ。真正面のやや左手の空に、北斗七星が見えている。しかし、その正面もすぐに右に流れる。彼がハンドルを左に大きく切ったせいだ。
 幹線道路を左に鋭角にまがると、そこからの枝道を街までずっとくだっていきながらの配達となる。最初の家は、枝道の入口の右側にある大きな農家だ。ここにまず、農業関係の業界紙をいれる。この家は明かりもなく、道路から玄関先まで距離があるため、彼はダッシュボードに置いた懐中電灯を手にしてから車のドアをあける。新聞を左の小脇にはさみ、懐中電灯のスイッチをいれてから、取っ手を口にくわえる。農家特有の玄関前の広い敷地を、氷を踏まないように気をつけながら進む。
 この家は玄関前もコンクリートで舗装されているのだが、舗装がでこぼこしていて、いつも水溜りができている。雪を溶かすために谷川からひいた水がいつも流れるようにしてあるのだが、夜中は水は止めてある。そのために水溜りが凍結していることが多いのだ。
 気をつけてはいたが、水たまりのへりの部分の目立たない氷にうっかり靴底を乗せてしまって、一瞬ツルッとバランスをくずす。ひやっとしたが、ステップでかわして、転びはしない。
 敷石を踏んで玄関脇の赤いポストに新聞を投函する。
 懐中電灯の明かりをたよりに、車へともどる。今度は足をすべらせない。車はヘッドライトをきらめかせ、エンジン音を響かせながら、後部のマフラーからもうもうと白いガスを吐いて、たのもしく彼を待っている。
 尻から座席に乗りこみ、両足を軽く叩きあわせて靴底の氷のかけらを払ってから、アクセルにつま先を乗せ、ドアを閉めると同時に発進する。
 そこからはずっと、長い下り坂がはじまる。
 順調にいけば、あと一時間半くらいで配達は終わるだろう。都会とちがって、田舎は家と家の間隔が遠く、しかも車での山間部の配達なので、百軒あまりがせいいっぱいだ。都市部だと二百軒はかるく配れるだろう。郵便受けがならんでいるアパートやマンションは楽勝だし、新聞も一社が基本だ。田舎だと朝日も毎日も読売も、スポーツ新聞各紙も、それにくわえて子ども新聞、英字新聞、業界紙、週刊誌などもある。まちがえないように配達するのが大変だ。
 ふだんは東京の販売店で配達しているのだが、春休みや夏休みのあいだだけ故郷《くに》でアルバイトする。最初にやるのは、どの家になにをいれるのか覚えることだ。もっとも、田舎では夕刊の配達はない。
 三百メートルほど下《くだ》り、左に寄せて車を停める。朝日新聞と農業新聞を一部ずつ手にして、今度は懐中電灯を持たずに出る。ぼんやりした街灯の明かりのなかを、まずは右側の村の雑貨屋の、古びて錆だらけのポストに朝日を、道路と用水路をわたって左側の家のドアの郵便受けから農業新聞をすべりこませる。
 新聞配達のアルバイトをしているのは、もちろん貧乏だからだ。世界には学生が働かなくても学べる国がいくつかあるという。しかしここは日本だ。日本はアメリカにならって、貧乏な学生は働かなければ学ぶことができない。たぶん日本という国は豊かな未来を望んでいないのだろう、と本気で思う。
 とはいえ、新聞配達をしている時間は嫌いではない。世間のほとんどの人が眠っているか、あるいは眠りにつこうとしている時間に起きだして働く。やがて仕事を終えるころには夜明けがやってくる。一日のうちでもっとも美しい時間に自分が目覚めて働いていることに、喜びを感じることもある。
 つぎの配達先は道路に背を向けるようにして建っている農家だ。車をぐるりと玄関先まで迂回させて進入させる。この家はいつもネギのにおいがする。朝日をいれる。
 バックさせて方向転換すると、道路にもどり、ふたたびゆるい坂をくだっていく。つぎの家までしばらくあるのと、ほぼ直線にちかい道なので、彼はいつもここでシートの横に置いてある水筒を取って、水を飲む。
 唇を水筒につけたとき、一瞬、塩気を感じるが、すぐに錯覚だとわかる。あのときの記憶が流れ星のように脳内に光跡をつくる。
 いったん下りきった道は、橋をわたってから、ちいさな丘に向かってすこしだけ登りになる。
 ゆるい上り坂の向こう――丘の上には、沈みかけたオリオン座が見えている。
 丘をのぼりきると、かすかにそれと見分けがつく水平線が見える。海と空が、まだ水平線のずっと下にある太陽の薄明かりで切り分けられる時間、天文薄明だ。
 彼は丘の一番高くなったところに車を停め、外に出る。
 丘から平野部を見下ろす。
 かつてはそこに街があった。おおぜいの人が住んでいた。道路を車が行き交い、港には荷や魚が陸揚げされていた。住宅も商店も役場も加工場もたくさんあった。彼もその街に住んでいた。
 彼もまた街とともに流された。
 自分が海へと濁流に連れだされていくとき感じた潮の味は、いまでも彼の唇や喉の奥に残っている。
 彼は車を残し、丘を海岸のほうへと歩きくだっていく。
 かつて街があったところは、いまは太古の昔そうであったように、灌木や草が茂り、小川が流れ、夜明けになればヒバリが巣を飛び立つ。浜の植物が砂地をはい、松の苗がふたたび岩のすきまから顔を出しはじめている。
 あのときのように彼は海へと出ていく。打ち寄せる波しぶきが、徐々に明るくなる空の下でくっきりと形を見せている。
 沖へ、沖へと出ていくにつれ、水平線は輝きを増し、すぐそこに日の出が待っていることを知らせている。オリオンはもう見えない。もうすっかり沈んだのだが、そもそももう星の光はほとんど見えない。
 どこかでウミネコの声が聞こえたようだ。
 彼は一刻もはやく太陽を浴びるかのように、海面をはなれ、空へと舞いあがる。
 空には雲は少ないが、東の空の低い雲は日に照らされて赤く染まっている。
 彼は高く高く上昇し、水平線が丸みをおびているのがわかるほどまでに高度を上げ、やがてウミネコからも見えなくなる。