ディープ・リスニング

人間の聴覚覚醒(=身体感覚の覚醒)に劇的な効果を発する「ディープリスニング(deep listening)」という手法に行き当たったのは、実は音楽サイドからのアプローチではありませんでした。

2000年ごろから私は若手の朗読者たちと朗読を含む音声表現の研究会をつづけてきましたが、そのなかでしばしば実験的なワークショップをおこなうことがありました(いまもあります)。約5年前のことですが、ふとした思いつきで真っ暗闇のなかで音だけを聴いてみよう、という試みをおこないました。研究会の場を地下アトリエに移したばかりのことで、なにしろ地下室ですから、照明を消せば完全な暗転状態を作りだすことが簡単だったのです。それを利用してみようと思いついたわけです。

照明を全部落として、いろいろな装置の待機電源などのLEDも消して、完全な真っ暗闇を作り出します。完全な暗闇というものを体験したことはあるでしょうか。実際に体験してみるとわかりますが、自分が目をあけているのか閉じているのかすらわかりません。あけても閉じてもなにも見えないことには変わりないわけですが。

視覚が完全に遮断されたとき、ほかの感覚がざわざわと目をさましはじめます。

私たち人間は――とくに現代人は――ふだんいかに視覚に依存しきって生活しているのか、暗闇に置かれたとき、それがよくわかります。視覚が遮断されると、一瞬、自分が立っているのか、寝ているのか、姿勢すらわからないような混乱に襲われます。が、すぐに視覚にたよることをやめ、身体感覚を取りもどすと、混乱は収束します。

そのように、視覚を強制的に遮断することによって、普段あまり意識することのない他の感覚器官をよみがえらせようというのが、ディープリスニングの第一の目的です。とくに聴覚器官である耳の感覚を鋭敏にすることによって、興味深い体験ができます。

 

視覚以外の感覚、とくに聴感覚に意識を集中させることによって、すぐに体験者は私たちが「耳のスイッチがはいる」と呼んでいる状態を経験することになります。

どういうことかというと、普段私たちは「耳のスイッチを切った」状態で生活しているのです。たとえばテレビやラジオがつけっぱなしになっていても、支障なくほかのことができる。家事や勉強や仕事が音でさまたげられることはありません。ときどき気になることがあったとしたら、それは「耳のスイッチがはいりかけている」からです。

だれかと話しているとき、まわりに騒音があったり、別の人が話している言葉が周囲に満ちあふれていたとしても、きちんと相手のいうことが聞こえるし、理解できます。

このように私たちは普段、耳にスイッチをいれたり、切ったり、音を取捨選択して意味だけを取りだしたりして生活しています。

この聴感覚にかけている制限をいっさい解き放ってみる。これがディープリスニングの目的です。

聴覚だけではありませんが、とくに聴覚は受動的感覚です。この感覚を全開にしてやることで、各人の身体のさまざまなところがつられて覚醒していきます。嗅覚が敏感になったり、触覚が敏感になる人もいます。また、脳内のイメージもさまざまに呼びおこされます。そのときはいってきた音の種類にもよりますが、はっきりとした風景を見たり、子どものころの記憶を呼びさまされたり、あるいは喜びや悲しみといったある感情に包まれたりすることもあります。

そのような体験は、普段あまりするものではありません。一度この聴覚覚醒体験をすると、日常においてもその感覚を思いだすことができるようになります。また、なにかの表現行為の最中にその感覚を思いだすことはとても有効です。たとえば朗読や音楽演奏のときに、聴覚覚醒状態を思いだし、耳にスイッチをいれ、身体感覚やイメージを豊かにもって行為にあたることは、非常にすばらしい結果をもたらすことがあります。

私たちがおこなっているワークショップでは、まずはディープリスニングという概念についての説明をおこなったあと、すぐに体験していただきます。照明を落とし、完全な静寂のなかで微細な音声を聞きとることからスタートします。

耳のスイッチがはいる体験をしていただいたあとは、そのまま自分が声を発して共有された音響空間にみずから参加することをしていただきます。

そのあとさらに「聴く」「声を出す」「受け取る」「参加する」「共有する」という作業をくりかえしながら、しだいに深いふかい音の内側へと降りていっていただきます。そこはいいかえれば私たちの身体の内部そのものなのですが、そこには大きな宇宙があり、また共感があることを体験してもらえることと思います。

(現代朗読協会 代表 水城雄)

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