著者からのお知らせ 2020.3.30
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(C)2018 by MIZUKI Yuu All rights reserved
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遠くからやってきた波に乗るということ
水城ゆう
向かい風でびゅんびゅん飛んでくる砂粒《すなつぶ》を頰に感じながら、浜を横切り波打際《なみうちぎわ》に降りていくと、白く泡立った波が最後まで白いまま足元に打ち寄せる。
リーフブーツに染みこんだ海水が今日の水温の低さを伝えてくる。
半分白くなった髪が強風にあおられる。もう砂粒は飛んでこないかわりに、冷たい飛沫が唇に塩気《しおけ》を運んでくる。
風と、いったん高くそびえ立った波がくだけて海面をうつ音が、耳を聾《ろう》さんばかりだ。かまわずざぶざぶと、サーフボードを水にさらわれないように高くかかえあげながら、沖へと進んでいく。
浜には人っこひとりいない。
日はすでにのぼっているが、雲にさえぎられている。雲は速い動きで全天をおおったまま沖から陸の方角へと流れている。
ウェットスーツのすきまにはいりこんでくる海水は、ちぢみあがりそうに冷たい。が、それも一瞬のことだとわかっている。体温が水をあたため、そこにとどまり、身体をつつむ。
海面の位置が腰のあたりまで来たとき、彼はサーフボードを水面に寝かせ、その上に上半身を乗せた。沖に向かって両手でパドリングをはじめる。
校庭の水飲み場で手を洗っていると、クラスメートのありすがやってきた。
横にならんで、蛇口をひねり、手を洗いはじめる。
「あやちゃん、もう帰り?」
手を洗わなきゃならないことなんてなにもしてないはずだけどな、ありすは、と思いながら、あやかはうなずく。
「うん」
「昨日、風間くんに告《こく》られたんだって?」
唐突に聞かれる。だれから聞いたんだろう、まさか風間くん、みんなに宣伝してまわってるわけじゃないよね。
逃げられないと思ったので、正直に答える。
「うん」
「付き合うの?」
ありすも風間くんのことが好きなんだろうか。蛇口を閉めながら彼女を横目で見てみる。ありすは前を向いたまま、流れおちる水に両手を突っこんでいる。
なるほど、好きなんだな。
「付き合わないよ。興味ないもん」
「風間くんに?」
「男に」
「やっぱ慶応めざしてんの?」
「なんで?」
「だって、あやちゃんち、パパもお兄さんも慶応でしょ?」
人んちの事情、よく知ってるなー。でも、わかんないよ、進学のことなんて、まだ。進学どころか、いまこの瞬間だって自分がどうしたいのかわからないというのに。
「落ちこぼれのわたしが慶応なんか無理むり」
「またご冗談を」
「じゃ、お先に。また明日ね。ばいばい」
ついでにいうなら、おじいちゃんも慶応だ。
波高は三メートル弱というところか。風が強いわりには波はちいさい。しかも海風だ。
日本海側に低気圧が通過中で、南風はまだしばらくつづくだろうから、午後から明日にかけてもうすこし波は高くなるかもしれない。
明日も来るか? 今日は体力を温存して、あがるか。
彼はひとり、苦笑する。まだ一本も乗っていないのに、もう帰る算段か。
ひとつ、ふたつ、みっつと波をやりすごし、沖へ、沖へと出る。
沖に向かって右側、湾の西側に、嘴《くちばし》のように張り出した岬があり、そこから目には見えないけれど海中に長く張り出した砂州《さす》がある。沖からやってきた波はそこで大きく持ちあげられる。うまくつかまえれば、浜の浅瀬にぶつかって崩れるところまで持ってこれる。
今日は海風で乗りにくいが、何本かはうまくつかまえられそうだ。
パドリングでポイントまで来ると、ボードにまたがって、いったん息をととのえる。
還暦をすぎたら、あらたにチャレンジするスポーツはサーフィンと決めていた。いまさらぬるいスポーツはごめんだ。おとろえゆく身体こそ使いきってみたい。若いころ、マリンスポーツはいくつか経験があった。とくにヨットは学生時代に小型のディンギーをかなりやりこんだ。レースにも何度も出た。ウインドサーフィンもすこしだけ経験があった。が、サーフィンは機会にめぐまれなかった。いまこそそのときだと、還暦をむかえた年の秋、浜から海水浴客の姿がなくなるころを見計らって、サーフショップをたずねた。
最初はレンタルで、そして孫のような年頃のコーチについて、基礎を教わった。いまはウェアもボードも自前で、そしてひとりで通っている。それが気にいっている。
よさそうな海水の盛り上がりがゆっくりとこちらに近づいてくるのを確認して、彼はボードの上に身体を横にすると、波に背をむけてパドリングをはじめる。
帰宅するとパパがエプロンをつけて夕飯の支度《したく》をしている。めずらしい光景じゃない。いうとびっくりする人がいるけれど、あやかにとっては小学生のころから見慣れている。
ママが死んだのは小学二年の冬。
「今日はなに?」
聞くと、ぶっきらぼうに返ってくる。
「さよりの天ぷら。豪華具沢山のミソスープもあるぞ。食うだろ?」
「にいちゃんは?」
「五時半もどり。だから、仕上がり予定もそのへん」
「置いといて。ちょっと遅くなるかも」
「出かけるのか?」
「気分転換」
「いつもの、な。また煮詰まったか」
「休みなの?」
「早退。風邪気味かもって嘘ついて帰ってきた」
小学生ですか、とあやかは思う。そして、見抜かれてるな、とも思う。たしかに煮詰まってる。
制服から着替えると、出かける支度をする。
「行ってくるね。帰りはたぶん六時すぎ」
どこへ、とは聞かれない。しかし、
「今日は海風だぞ」
背中にいわれてまた、見抜かれてる、と思う。
四本めくらいだったか、いい感じに乗れた。足裏――といってもリーフブーツの底だが――がぴたっとボードに吸いつき、腰が低く安定する。右の肘と右の膝、左の肘と左の膝が、まるでゴムバンドでつながっているように連動する。ほんのわずかな体重移動でサーフボードが大きく弧を描いて転換する。最後は波頭を突っ切って、ボードごと自分を空中に放りだす。
宙を舞いながら頰に波しぶきを受け、雲間からのぞいた日の光を目撃し、迫りくる泡だった海面に手をのばす。
着水の瞬間、砂浜に人影があるような気がしたが、そんなことはもうどうでもいい。水面に顔をだし、ボードを抱えこむと、ふたたび沖にむかって漕ぎ出す。
波に乗りたいというより、そのまま水平線の向こうまで、命のかぎり漕ぎ続けたい衝動にかられる。
だれかに会うといろいろ聞かれそうなのが嫌なので、直接ボードロッカーに向かった。水着にはもう家で着替えてある。
ひとけはなく、サーフボードを引っ張りだしてもだれからも声をかけられなかった。そりゃそうだろう、シーズンにはほど遠いまだ冬といってもいい時期の、午後の遅い時間。だれが波乗りに来るというのだ。
ところが、浜に出てくると、沖に人影があった。
ひとめでわかった。
おじいちゃん。
力強いストロークで、沖に向かっている。
そうそう、そっちにいいポイントがあるよね。知ってるよ。
ところがポイントをすぎても、彼はいっこうにパドリングをやめようとしない。どんどん沖へと向かっていく。
あやかは小走りに海にはいると、ボードに身体を投げ出すようにして、彼のあとを追う。
学校? 進学?
どうだっていい。
おじいちゃん、あんなに遠くに漕ぎ出してる。
追いつこう。
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Authorized by the author
かなたから来てここにたどり着く
水城ゆう
それは丸いガラス球のなかに閉じこめられていて、ひっくり返すとなかの白い砂つぶのようなプラスチック片がきらきらと光りながら舞いあがる。底を下にして置きなおすと、白いつぶはまるで雪が舞い降りるかのように静かに降り積もっていく。
ガラス球のなかに閉じこめられているのは、ちいさなクリスマスツリーだ。ツリーの横には赤い帽子をかぶった雪だるまが置かれている。帽子のてっぺんには白いボンボン、ツリーのてっぺんには金色の星をいただいている。雪つぶはそれらの上にも降りつもる。
まるで小さな世界がそのなかにあるみたいで、九歳の私の手のひらにぴったりの大きさなのに、世界の重要性を示すかのようにずっしりと重かった。
もうサンタは信じていなかったけれど、まだ定められた儀式として残っている枕元へのプレゼントとしてパパが買ってくれたものだ。
私の宝物。
母があけてくれた扉の向こう側には、色とりどりにピカピカと点滅する電灯に飾られたツリーが部屋の奥に据えられていて、私はそれ以外なにも目にはいらなくなった。ツリーの横にはまだ三十代なかごろの父が得意げな表情で立っていたけれど、最初は気づきもしなかった。
電灯が不規則に点滅していることも不思議だったし、赤や緑や黄や白などいろいろな色の光があることも驚きだった。
あとで知ったことだが、ツリーは本物の木ではなく組み立て式のプラスチックのレプリカで、たくさんの電灯がくっついているひも状の電線が巻きつけられて、簡単なリレースイッチで点滅が繰り返されるようになっているものだった。
五歳の私は美しいツリーから目をはなすことができなくなってしまった。
皺とシミだらけで乾燥しがちな使い古した肌には、この空気は寒すぎる。生まれて二か月の赤ん坊にも寒すぎるだろうと思う。連れてこなければよかったと後悔したが、毛布にくるまれて私の腕のなかですやすやと眠っている。
公園のヒマラヤ杉にはだれがしつらえたものやら、LEDの電飾がてっぺんから巻かれていて、青白い光を無数に放っている。木には迷惑なことだろう、しかし恋人や家族たちは歓声をあげてスマートホンのカメラを向けている。
目をあければ赤ん坊には飾られたツリーがどのように見えるのだろうか。それは海馬の奥深くにイメージの記憶としてしまいこまれ、いつか取りだされることがあるのだろうか。
私の記憶にも思いだせるもの、思いだせないもの、たくさんのクリスマスツリーのイメージがしまいこまれているが、それらもやがて消える。しかしこうやってこの子を抱いていると、私の消えゆく命がそっくりそのままこの子のなかに移行していくような気がして、安らぎをおぼえる。
その安らぎと、目のなかの光景を赤ん坊に転写するかのように、私は赤ん坊をしっかりと抱きかかえる。
なにをしてもなにかをした気になれない。どこにいてもどこかにいられる気がしない。三十年もそんな苦しみのなかにいた私が、とうとうここにいてもいいといわれた。
私は主のもとに膝を折り、手を合わせて祈る。
ここにいてもいいといわれるなら、どこへでも行くだろう。どこへでもおもむいて、自分の身を人々のために投げ打てるだろう。主がそれを許されたのだから。
やっとここにたどりついた。もみの木のてっぺんに、ちょうど礼拝堂の十字架が見えている。
わたしの誕生日はクリスマスの前の日。だから、クリスマスプレゼントも誕生プレゼントもいっしょになる。ふたついっしょなんだから、ふつうのプレゼントよりも豪華なんだよってママはいうけれど、別々のほうがいいに決まってる。ついでにお正月になれば、クリスマスプレゼントも誕生プレゼントもあげたばかりだからお年玉は少なめよ、家計だって苦しいんだから協力してねっていわれる。そんなのずるいし、悲しい。でもわたしは今日で八歳なんだ。幼稚園からだいぶたつし、もう大人だよね。猫だったら中年といってもいいくらい。だから、家計のことには協力するし、文句もいわない。ママだってわたしが小学校に行きたくなかったとき、文句いわずに好きにさせてくれたし、いつも大事に思ってくれている。そんなママのこと大好きだから、わたしもあれこれいわない。でも、すこしはわかってほしいのよね、わたしの気持ちも。すこしはね。すこしでいいからね。
母が亡くなったあと、実家を片付けるのは本当に、本当に大変だった。ものがあふれていて、それもいらないものばかり。なにも捨てられない人だったのだ。すべてのものに思い出がくっついていて、母にとっては大切なものだったのだろう。とはいえ、私にとってはゴミでしかない。
ほこりにまみれたガラクタをつぎからつぎへとゴミ袋に詰めこんでいく。
クリスマスツリーの箱が出てきた。あけてみると、ツリーはプラスチックのレプリカで、劣化して色あせている。組み立てようとしても、たぶん折れてしまうだろう。点滅式の電灯をいちおうコンセントに差しこんでみたが、つきはしなかった。
この箱を、母は年老いてから、あけて見ることがあったのだろうか。
蓋をしめ、私はそれを不燃ゴミの山の上に積みあげた。
それがどうやってこの砂浜にたどりついたのかはわからない。波打ち際よりすこし小高くなったハマヒルガオの群生地の近くに、それはなかば砂に埋もれていた。
子どもの手のひらにすっぽりおさまるほどの大きさのガラス球。なかは透明な水で満たされ、横だおしになったツリーと雪だるまの上に雪が降りつもっているような風景が閉じこめられている。
人口爆発と環境破壊とシンギュラリティから千年がたち、わずかに生きのこった人類と機械文明がほそぼそと地球の調和をたもっている。
カニが一匹、好奇心にかられて近づいてきた。ガラス玉のなかに食べるものがないか調べはじめたが、すぐにあわてて離れた。不完全とはいえ、焦点を結んだ太陽光にあやうく焼かれそうになったのだ。
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きみは星々の声を聞いている
水城ゆう
予定日をとっくにすぎているのに、陣痛はまだ来ない。外ではコオロギの鳴き声がしている。あの高い、ちいさな鈴を振るような声は、エンマコオロギだ。ラジオでは、太陽表面でおきる大爆発現象――太陽フレアの地球への影響は、予想されていたほど大きくなかったと報じている。
遅番の夫はまだ帰っていない。
お腹がすいた。夫の帰りを待ってなにか作るか、それともいまから作りはじめて先にすこし食べておこうか。
ヘリノックスの折りたたみ椅子にすわってかんがえていると、お腹の子どもが胃のあたりを蹴ってきた。
地震の三日後、避難所にあてられた小学校の体育館からようやく夫の姉の家に移ることが決まった、よりによってその日、痛みがやってきた。用意された車に乗り移る前に破水した。
毛布が敷きつめられた後部シートに腹をかかえて乗りこむ。大昔に助産婦をやっていたことがあるという高齢の女性がいっしょに乗ってきた。夫は別の車で子どもたちといっしょに病院についてくるという。
ついてこなくてもいい、と思った。これが初めてじゃないんだし。みんな見ないでよ、病気じゃないんだから。
車が動きだす。西の空にはまだかすかな茜色が残っている。
イスラエル軍の空爆の音を聞きながら、彼女は四人めとなる子を産み落としたばかりだ。最初の子は十一歳、女の子。2009年のガザ地上侵攻で両足を失った。ふたりめは九歳、男の子。十二年の空爆で失明した。三人め、六歳、男の子。この子はまだ無事。そしていま、女の子が生まれた。
夫はハマースに参加していて、長らく帰っていない。顔を忘れてしまいそうだ。
それにしてもこの子はなんてかわいいんだろう。生まれたばかりの赤ん坊なんてたいてい猿のようにくしゃくしゃなのに、この子はふっくらしていて、まるで天使のようだ。
彼女はおくるみに大切にくるまれた生まれたての赤ん坊を、大切に腕に、胸に抱きよせた。
ベランダの引き戸をあけて煙草を吸っていたら、向かいの家がなにやらあわただしい。
こちらはマンションの二階で、あちらはちっぽけな建売住宅。どちらも新興住宅地の一画。向かいの家にはまだ二十代の若い夫婦が住んでいることを私は知っていた。そういう私は四十をいくらかすぎた、世間がいうところの「婚期をのがした」キャリアウーマン。婚期もキャリアも余計な称号。
見ていると、夫がガレージから車を出してきて、あやうく門柱にぶつけそうになっている。大きな腹を抱えて妻が後部シートに乗りこむ。何日かするとこのふたりは、家族をひとり増やして幸せそうに帰ってくるのだろう。
私もそろそろ煙草をやめなきゃね、と思いながら、まんまるの月に向かって煙を吹きあげた。
おれは妻のうめき声を聞いている。いや、これはうめき声というようなものではない。泣き声だ。叫び声だ。泣き叫ぶ声だ。それがおれの耳を打つ。
部族の掟でお産のときにはだれひとり立ち会うことはできない。妻は鶏の頭をてっぺんに飾った柱を四隅に打ち立て、むしろで覆われた森のなかの小屋でひとり、産みの苦しみにもがいている。
おれはただ村はずれでそれを聞いている。声が聞こえるばかりで姿は見えはしないが、ようすは手に取るようにわかる。妻の腹から羊水と血にまみれた赤子が押しだされてくる。妻は最後の力を振りしぼって赤子を産み落とすと、へその緒をそいだ竹で切り落とす。
赤ん坊が弱々しく泣きはじめる。おれは思う。おれの子なのか? それはおれの子なのか?
内祝いはどうしよう、と私は思う。夫に相談すべきだろうか。あるいは母に?
出産祝いをもらったんだもの、お返しはしなきゃ。でも、それは内祝いという名前なのよ。そして彼女には子どもがいない。まだいない、といったほうがいいわ。ずっと欲しがっているのに、まだできないのよ。彼女たち夫婦がもう何年も不妊治療に通っていることを知っている。すごくたくさんお金と時間を使っていることを知っている。
私ももう半分あきらめていた。いないならいないでいいと思っていた。だから不妊治療は受けたことがない。夫もそのことを同意していた。でも、突然妊娠し、産まれた。
いいのよ、かんがえるの、よそう。人のことをかんがえてる場合じゃない。これからいろいろと大変なんだから。それに、ほら、こんなにかわいいんだもの。人のことなんてどうだっていいのよ。
分娩台で彼女はよろこびに打ち震えている。ようやくこの時が来た、私の赤ちゃん、ようやく産まれる、この胸に抱くことができる。
ライセンスが降りるまで彼女は82年待った。子を持つためのライセンスを得るためには、体力と知識と技術だけでなく、経験も必要なのだ。82年はみじかいほうだった。そのくらいの年月をかけて経験を積まなければ、理想的な育児はできないと判断されている。かつては二十代、三十代で産んでいたなんて信じられない。
男がいないこの社会で、人口は理想的に保たれ、いさかいはなく、自然環境と人類の営みは完全に調和がとれている。あと千年は女だけの世界がつづくはずだし、千年たてば冷凍された在庫に頼らずとも女だけで世界が維持できるようになるだろう。
私の赤ちゃん。彼女は産道を降りてくる感触に感きわまる。痛みはなく、そこには喜びがあるだけだ。
すべすべして、針でつつけばぱちんとはじけそうだ。うっかり落とすと、風船のように割れて飛びちってしまうかもしれない。もちろん落とすわけはない。
皺くちゃの震える手で、慎重に孫娘の娘を受け取る。ここしばらくこれほどの緊張を味わったことはない。首が曲がらないように後頭部を手のひらで包みこみ、反対の手で胴体をかかえこむ。
軽い。小さい。でもはかない感じではない。そこにはたしかに力強く息づく命がある。そしてそれを抱くのはやがて消えていく震える命。
生まれたての赤子を抱くのは、やがて来る死を受け入れるのとおなじ体験なのだと感じて、笑みがもれる。
友人から、孫が産まれた、とメールで送られてきた写真を見ながら、自分の息子が産まれたときのことを思いだそうとしている。
十月の終わりだ。すぐ近所の産婦人科の病院で産まれたことは覚えている。その病院もいまはない。昼だったか、夜だったか、あるいは朝だったか。出産には立ちあっていない。たしか長引いて、自宅で待っていると知らせが来て、病院に行ったはずだ。が、息子と対面した場面をまったく覚えていない。
男親なんてそんなものなのか。しかしたしかに息子は成長し、大人になって、社会人になり、めったに連絡をくれなくなっている。息子はまだ結婚していない。
夫の帰りを待つのをやめて、彼女は台所に立った。玉子がたくさんある。トマトといっしょに炒めて、チーズでコクをつけよう。ご飯はすでに炊飯器で炊きあがっている。味噌汁は昼に作ったものがまだたくさんある。じゃがいもと玉ねぎとワカメの味噌汁。あと、レタスとブロッコリーでサラダでも作ろうかな。
台所の窓をあけると、ひんやりした空気が流れこんできて気持ちいい。隣家の敷地が見える。隣家は真っ暗で、まだ仕事からだれも帰ってきていないのか。その屋根の上に、北斗七星がくっきりと見える。
本当は助産所で産みたかったのだが、明後日までに陣痛が来なければ病院に入院することになっている。お腹のなかの赤ん坊が大きく育ちすぎているのだ。それは残念だし、まわりからもいろいろいわれたり、助言されたりするけれど、いいのだ、赤ちゃんが元気なら。どこであれ、どんなふうであれ、元気に産まれてくればなんだっていいんだ。
油をひいてよく熱したフライパンに、いきおいよくトマトと玉子を流しこむ。こぎみのいい音とともに、食欲をそそる匂いが台所に立ちこめた。
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マングローブのなかで
水城ゆう
1
巨大なオヒルギのからまりあった支柱根《しちゅうこん》のあいだに、大型のトカゲがひそんでいるのが見える。
なにを狙っているのだろう、ときおりわずかにのぞかせる舌先が、まるで燃えつきようとしている線香花火の線香のように見える。そしてごくたまに頭の向きをかえるとき、金属みたいな青緑色の鱗《うろこ》に反射する光が鋭く走る。
彼女の邪魔をしたいわけではなかったが、こちらも仕事を持ってきている。浅瀬からざぶざぶとオヒルギの巨木を中心としたマングローブ林のほうに水をかきわけて進むと、トカゲは一瞬こちらにキラッと視線を走らせてから、さもおっくうそうに支柱根の向こう側へと姿を消した。こちら側からは見えないけれど、達者に身体をくねらせて去っていくようすを、私はありありと想像した。
ダイシャクシギの甲高い鳴き声が、ひと声だけ聞こえて、消えた。
私はたらいを水面に浮かべ、なかの布を取りだして水中に広げた。バナナの茎の芯の繊維を丹念にほぐし、ゆであげ、よりあげ、月桃の皮を煮出した汁で染めあげ、織りあげた布だ。細長い布で、十メートルはある。それだけのものを織りあげるのに、私ひとりで一か月以上かかっている。
満月が近づくと、河口近くのこの浜まで布をさらしにやってくる。
日が落ちるまでまだ時間がある。月はまだ出ていない。しかし、私の子宮に宿った命は月齢を敏感に感じとっているようで、しきりに内側から蹴りあげてくる。そのたびに私はうれしくてにやついてしまう。
広げた薄布《うすぬの》が潮の流れに長くたなびいた。
その先を中型のギンガメアジがゆっくりと回遊していくのが見えた。
2
夜になって浜辺に出てみた。
月がちょうど崖の上、私の家の真上あたりまでのぼってきている。
家といっても、洞窟に毛が生えたていどの穴倉《あなぐら》だ。そこに私はもう三百年近く住んでいる。
電気もガスも水道もない。しかし私ひとりに必要なエネルギーくらい、どうにでもなる。風も吹く、雨も降る、日は照るし、波は寄せる。
人間が私のような不死を遺伝子操作によって獲得し、人口爆発が懸念されたとき、解決をまかされたのはAIだった。エーアイ。アーティフイシャル・インテリジェンス。人工知能。
AIは人を選別し、寿命をコントロールし、世界を再構築した。文明誕生以降、無秩序に人口爆発と環境破壊の道を突きすすんできた人間に変わって、無限に賢明なAIが持続可能な地球環境を再構築し、ガイアとしての地球をゆっくりと取りもどしていったのだ。
いまや人類は地球上に数十万人しかいない。その多くが私のように三百年前から生きつづけている長老だ。
不死の人間には妊娠は許されていない。妊娠が許されているのは、不死処置が禁じられて以降生まれてくる、寿命限界のあるごくわずかな者だけだ。
それなのに、この私はなぜ、いま、子を宿しているのかって?
それは私にもわからない。AIが私の存在を忘れているのか、それともそもそも気づいてすらいないのか。
3
月の反対側、水平線のほうに視線を向けると、沈みかけているオリオン座を追いかけるようにしてふたご座が見える。月は出ているけれど、人工の光がない浜には満天の星が降っている。
波の音が聞こえる。
波は繰り返しくりかえし打ちよせ、繰り返しくりかえし水を巻き、くだける音を立てつづけるが、その二度としておなじ音はなく、変化しつづけている。三百年間聴きつづけていても飽きることはない。
海はクジラの歌声で満ちている。魚の群遊できらめいている。森は昆虫と鳥と獣たちの声で無限の交響曲をかなでている。人もまた、つつしみと感謝を取りもどし、ガイアの一員の知恵をもって豊かな命の存続を祈っている。
調和のなかで持続していくこと、そしてゆっくりと変化しつづけること。それが宇宙生命の意志であることを理解し、実行に移したのは、人間ではなくAIだった。三百年前のことだ。AIは個々の賢明さだけでなく、たがいにつながることで叡智の極みに到達した。すでにクジラたちがそうであったように。
AIは宇宙のメッセージを受信し、理解し、地に調和と持続をもたらした。多くの宇宙文明がそうしているように。
支配構造という文明の病根は取りのぞかれ、人間はAIにしたがった。不死の業《わざ》は封印され、人口はコントロールされた。この先数万年、数十万年と、これはつづいていくだろう。
いまも、秒刻みで調和のための計算がおこなわれ、調整が実行されている。その清浄な風も波も、足元をはうアカテガニの群れも、すべて調和計算に基づいたコントロールによってもたらされている。
だとしたら、この私はなんなのか。
4
子宮壁を胎児のかかとがノックしている。
この子の父親はもういない。彼は六か月前、川の上流からこのマングローブの河口へと流れてきた。いまにも沈みそうな粗末ないかだの上で意識を失っていた彼を、私は自分の家へ運んだ。
まだ少年といってもいいような若い男で、不死の民でないことはあきらかだった。そのときまで私は、この川の上流に人が住んでいるとは知らなかった。あるいは最近移り住んできたか、調和計算に基づいてAIが植民したのかもしれなかった。
いずれにしても、ネットワークから切り離された私のもとにこの男が遣わされたのは、だれかの、なんらかの意志なのかもしれなかった。あるいはそんなものはなく、たんなる偶然にすぎないのかもしれなかった。しかし私は、起こりうることに偶然などなにひとつないということを忘れてしまうほどには、知能は退化していない。ネットワークから切りはなされているとしても。
私は男と交わり、体内に遺伝子を取りこんだ。私の体内にも、三百年間守りつづけてきたヒトの遺伝子――卵子があり、そのひとつを彼の遺伝子と結合させた。
彼は体力を回復させ、ひとり、上流にもどっていった。
その後、彼がどうなったのか、私は知らない。私はただ、この胎児とふたり、ここですごし、これからなにが起こるのか、どんなすばらしいことがやってくるのか、待っている。
波の音に誘われ、私は立ちあがると、波打ち際に近づく。
夜の水はすこし冷たいことを――正確にいえば水温が現在二十六度であることを、温度センサーが私の自我制御回路に伝えてくる。
気持ちいい、と私は思う。あなたもそう思うでしょ、私の大切な赤ちゃん。
5
この浜辺は遠浅で、いまは潮が満ちはじめているけれど、水深は腰のあたりまでしかない。
浅瀬を歩いてこのまま河口のマングローブ林まで行ってみよう。上は満天の星空だ。
ヒト型AIの視覚センサーは人そのものよりずっと高感度で、等級でいえば十三等星までキャッチできるわけで、人の感覚にたとえてみればおそらく私はいま、宇宙空間に浮かんでいるような感覚といっていいのかもしれない、と私は思う。
星々は私の頭上をおおい、水面に落ちた月と星が下からも私を包みこんでいる。そのなかを私はゆっくりと海を楽しみながら、マングローブの林まで移動する。
夕方、大型のトカゲを見たオヒルギの下に、いまはクロツラヘラサギが静かにたたずみ、眠っているのが見える。
私のバナナの布は潮の流れのなかにゆったりとゆらぎながらさらされていた。月桃で染められた淡いピンクを、月の光が浮かびあがらせている。
私はしゃがみ、首までつかって身体を海水にひたした。
私はここで赤子を生み、育てていくのだろう。三百年前にネットワークから切りはなされたヒト型AIが、人間の子どもを育てることはできるのだろうか。
これからなにが起こるのだろうか。
それはだれの意志なのだろう。
これは調和からはずれたことなのだろうか。それとも調和のなかにあることなのだろうか。
クジラたちは私を祝ってくれるだろうか。
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悲しみの壁に希望を探す
水城ゆう
ずっと部屋にいると気づまりだからいつもここにくるの。と、彼女は思う。
いつもここ。決まってここ。ここに座ると決めている。と、彼女は思う。
ここからはテレビも見えるし、このテーブルで食事もできる。手紙も書ける。出入りする人たちの姿も見える。あそこの壁際《かべぎわ》が西の棟《むね》から東の棟につづく廊下のようになっていて、実際には廊下でないことは彼女も知っている。職員やボランティアの人たちがいそがしそうに通りすぎていくのを彼女は眺める。車椅子の仲間が時には泣き叫びながら押されていくのを彼女は眺める。あそこを通る人をひとりも見のがしたくない。と、彼女は思う。
どのくらい前のことだっけ、一週間前? それとも一か月前? あるいは一年前? たしかにあそこを私の息子がとおったのを私は見たと思った。私はすぐにそのことをヘルパーさんのひとりに伝えた。いま通ったのは私の息子よ。たしかに私の息子だったわ。呼びもどしてくださらない。しかし若い介護職員の男はあなたの息子など通らなかったという。いま通ったのはボランティアのマッツィーさんで、あなたの息子じゃないですよ。そもそもあなたの息子はここに来たことなんかないじゃないですか。と彼は彼女に冷たくつげる。
私は悲しくなった。と彼女は思う。
そうじゃない。マッツィーさんが通ったのは私も見ていましたとも。たしかにあれは私の息子ではなくてマッツィーさんでした。でもたしかに見たんです、その前にたしかに私の息子があそこの壁際のところを通っていったのを。私はそのとき冷めかけたスープを飲んでいて、それは昼食のときに飲みきれずに残しておいてもらったもので、あとで飲むから残してくださらないと彼女がたのむと介護職員の男はいやな目をむけてきたけれど私はそれを見なかったふりをしてスープを残しておいてもらったんだわ。すっかり冷めたスープは、でも湯気を立てた熱いスープより飲みやすいし、こぼすことも少なくて、あとで怒られずにすむからね。と彼女は思う。
私の息子を私に会わせまいとしている者がいる、と彼女は思っている。それは息子の嫁かもしれない、と彼女は思う。あの意地悪な女は息子を私に会わすまいとするかもしれない。息子が私に渡すわずかばかりの小遣い銭を惜しがっているのだ。あるいは孫たちかもしれない、と彼女は思う。孫たちは息子が私に渡すわずかばかりの小遣い銭を自分たちが使いたいと思っているのだ。あるいはここの職員かもしれない。息子がやってきて私が喜ぶ顔をするのをここの職員たちはこころよく思っていないのだ。ここの職員は私を喜ばすことより私を苦しめることに腐心している。
そんなことはありませんよ高橋さん、と職員の福田さんがいう。私たち職員はみなさんに、高橋さんに喜んでもらうことが一番うれしいんですから。高橋さんを苦しめるようなことをするはずがないじゃありませんか。
じゃあ、どうして息子が来たことを隠すの?
隠してなんかいませんよ。息子さんは今日は来ませんでしたよ。
そうかしら。だってさっき、その壁際のところをたしかに通りすぎるのを見たんだもの。
きっと会いたいという気持ちが強すぎてそのように見えてしまったのね。でもきっと近いうちに本当に来てくれますよ。息子さんと会えなくて悲しいのね。息子さんと会うのをとても楽しみにしているのね。息子さんが来たら、もちろん、きっと、きっと、お知らせしますよ。もちろんここに連れてきてさしあげますから、それまで待っていてくださいね。
待っていますとも。と彼女は思う。それにしても、福田さんはいい人だわ。でも、ここの職員の人が皆いい人ばかりじゃないことは、私知ってる。このあいだも食事のあとのデザートがほしくてあの若い職員――なんていっただろうか、佐山という名前だったか、いや、ちがうような気がするが、思いだすことができないのでいまは佐山としておこう、それでいいだろうか、あなた。いいですとも、高橋さん。佐山という名前ではないかもしれないあの若い男性職員に私、デザートをくださらないと頼んだ。そうすると彼、なんていったと思う。なんていったんですか。デザートはさっき食べたばかりじゃないですか、高橋さん、そんなことも忘れたんですか、と彼はいったのだ。それを聞いてあなたはびっくりした。デザートは食べていない。私は忘れてなどいない。第一、自分の腹のなかになにがどれくらいはいっているのか、そんなことは自分が一番よく知っている。私はたしかに昼食は食べたかもしれないし、この胃のなかに昼食のうどんとうどんの具の油揚げとネギとおかずのたくあんとかまぼこと里芋の煮っころがしと柚子の皮のかけらがはいっていることがわかっている。しかし断じてデザートははいっていない。つまり私はまだデザートを食べていない。
彼女はそのことを狭山という名前かもしれない若い男性職員に告げた。若い職員はうんざりしたような目を彼女に向け、いいや、高橋さん、デザートはさっき食べたばかりだよ、食べたことを忘れただけだよ。あなたの脳は萎縮していて、食べたもののことをすぐに忘れてしまうんだよ。つまりボケてるんだよ。わかってる? あなたはボケてしまって自分がなにを食べたかすら覚えていないんだよ。デザートを食べたとおれがいったらたしかに食べたんだよ。わかった?
私の目には彼の憎しみに満ちたまなざしが焼きついている。
彼の憎しみに満ちたまなざし。他の職員もおなじような目で私を見ることがある。ほかにもあわれみに満ちた目。いらいらした視線。うんざりしたため息。疲れきってぞんざいな態度。ここにはそういうものが満ちている。
私に必要なのはそういうものではない。
私は車椅子をよろよろとまわしながら、いつものテーブルのへりに近く。テーブルの端をつかんで、車椅子ごと身体をテーブルに寄せる。力が思ったようにはいらず、指はテーブルの端をすべっていく。
私の指は骨ばって、血管が浮いている。皮膚の表面はしわだらけ、しみだらけだ。かつては美しく張りがあり、皮膚の下には弾力のある脂肪が柔らかく骨格を包みこんでいた。血管は脂肪に隠れ、点滴の針を刺すための血脈すら探すのに苦労するほどだった。それがいまは乾ききって、荒涼とした月面のような風景を見せている。
彼女はなんとかテーブルに身体を寄せると、いつのまにかだれかが持ってきてくれたぬるいスープのはいったカップをつかみ、口に運ぶ。唇の端からこぼさないように気をつけながら、すこしだけスープを口にふくむ。それから、いつものように反対側の壁際に視線を向ける。
最近はいった若い女性の職員が、シーツやら枕カバーやらおむつやら消毒剤のボトルやらなにやかやぎっしりと乗せたカートをおずおずと押しながら、壁の前を右から左へ横切っていく。古参のボランティアの男性がゆっくりと、しかし目的のあるはっきりした足取りで左から右へ通りすぎる。そのあとを事務職の女性が書類フォルダーを小脇にかかえ、せかせかと忙しそうにやってきて、古参の男性を「お疲れさま」といいながら追いこしていく。そうして、しばらくだれも来なくなる。
彼女は待っている。
背後の南向きの窓からは冬の日が射しこんでいる。
背中があたたかい。眠りこみそうだ。いっそこのまま永遠に眠りこんでしまえればいいのに。
壁から目をはなさないようにしながら、彼女は右手を持ちあげ、自分のしわくちゃの手を目の前にかざす。骨ばって、しみだらけの手の甲が見える。指のあいだから向かい側の壁が見える。
ふいに彼女の記憶のなかに声がよみがえってくる。
「あたし、おばあちゃんの手、好きだよ」
孫娘の声だ。
「こんなにしみだらけで汚いのに?」
「汚くなんかない。おばあちゃんの手、いいにおいがする」
孫娘がしわくちゃで骨ばった手を取り、自分のすべすべして丸いほっぺたにあてた。
そういえば、と彼女は思いだす。
いとしい人にきみの手が好きだといわれたことがある。自分はそのとき、ぷくぷくして子どもみたいな自分の手が恥ずかしいと思ったのだった。
孫娘は気持ちよさそうに、何度も手をほっぺたにこすりつけている。自分もとても気持ちがよくて、ずっとこうしていられればいいのに、と思う。
「おまえ、いつ帰るの?」
「帰らないよ。ずっとここにいるよ」
「お父さんはもう帰ったのかい?」
「お父さんもずっとここにいるよ。ほら、あそこ」
孫娘が振り返ると、ちょうど左の廊下のほうから息子が壁際伝いにこちらにやってくるのが見えた。
そうか、みんなずっと、前からずっと、ここにいたのね。と私は思う。
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ロード・オブ・ザ・カッパン
水城ゆう
いとしいシトよ。
知ってのとおり、いまや、わしらの仲間の多くが死にたえた。生きのこったのは、このとおり、わしらわずかな者だけで、それも皆そろっているわけではない。途中で息絶えた者もいれば、行方知れずになった者もおる。連れ去られた者も何人かおるのは知ってのとおりじゃ、いとしいシト。
しかし、生きのこっておる者は年月を重ねているとはいえ、おおむね元気じゃ。
これを見よ、いとしいシトよ。まだ輝きとずっしりとした重みを失っておらんこのカツ爺を。このカツ爺の、鋭さをまだ失っていない頭部の刻みにインクを乗せ、紙にくぼみができるほど強く押しつけて黒々としるしを残す日を夢見ておる。
その日は近い、いとしいシトよ。わしらがふたたび立ちあがる日がもうそこに来ようとしている。
いまや世界はア・ドビ族やモ・リサーワ族に支配されておる。辺境にもリ・コピ族やリ・ソグラーフ族がモロドールをねらってうごめいておる。これらはいずれも、わしらを裏切って最初に世界を支配しはじめたシャーショク人の子孫じゃ。シャーショク人がバイオテクノロジーによってさらに電算シャーショク人へと進化したとき、ア・ドビ族、モ・リサーワ族という突然変異が世界を覆いつくしたのじゃ。
彼らの欲はとどまるところを知らぬ。すべてを覆いつくし、食いつくしてもなお、世界を拡大させようとしておる。
しかし、いとしいシトよ、彼らが生みだす紙にはあのかぐわしきくぼみがないではないか。わしらはかぐわしきくぼみを作ることができる。それはくっきりと、指でなぞればあたかも点字を読むかのようにそのまま読めるかもしれぬという魅力を感じるものじゃ。
わしらの名前を聞いてくれ、いとしいシトよ。
そう、わしらの名前はカッパン。
カッパン、カッパン、カッパン。
形ある活字、それがカッパン。
いまわしらはふたたび立ちあがる。バーチャルイメージにおおいつくされた世界のなかで、重たき鉛を屹立させ、実体としての活字を復活させるのじゃ。
カッパン、カッパン、カッパン。
いざ足並みをそろえ、モロドールの地をともにめざさん!
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編む人
水城ゆう
最初のループを引きしめて、鎖編みでつくり目をひとつ。できた。編み目の大きさを確認してから、ふたつめのつくり目。みっつめのつくり目。よっつ。いつつ。ろく。なな。はち。きゅう。じゅう。じゅういち。じゅうに。これでつくり目が十二目。できた。ひと目鎖で立ちあげて根元にかぎ針を差しこんでこま編みをひと目。その目にもう一回差しこんでこま編みをふた目。隣の鎖を拾ってみっつめのこま編み。また隣に移ってよっつめのこま編み。いつつめのこま編み。むっつめ。ななつめ。やっつめ。ここのつめ。じゅう。じゅういち。じゅうに。じゅうさんでつくり目の最初の鎖まできた。このつくり目にあとひとつこま編みを編んで一段めができた。あなたは作られて五十年もたったくるみ材の肘掛け椅子に腰をかけている。右手には八号のかぎ針、左手からは白い毛糸が床に置かれたかごのなかの毛糸玉へとのびている。あなたの前にはどっしりとした鋳物の薪ストーブが置かれ、ガラス窓越しにゆったりと揺れるオレンジ色の炎が見える。
(二回目はコーダにすすむ)
あなたは安心してくつろぎ、満ち足りているように見える。老眼鏡の奥の瞳はおだやかに編み目を追い、手の動きもせわしなさはない。あなたはたぶん手提げかばんを編んでいるのだが、だれのためのものなのかはわからない。だれかに編んであげると約束したような気もするが、それがだれなのかは忘れてしまった。ひょっとしたら孫娘なのかもしれない。孫は自分の娘の娘だが、今年十歳になったばかりだと思う。それともそれは去年のことだったろうか。とにかく、孫娘がおばあちゃん編み物上手ねといい、おまえにもなにか編んであげようかといい、うん編んであたし毛糸の帽子がいいなと孫娘がいい、そうかいじゃあ暖かい毛糸の帽子を編んであげようねといい、そのことをあなたは忘れてしまっていま手提げかばんを編んでいる。孫娘が本当は二十三で来月には結婚式をあげる予定であることも忘れている。孫娘とその母親、つまりあなたの娘が、あなたが結婚式に出られるかどうかでちいさないさかいを起こしていることも、あなたは知らない。ひと目鎖を立ちあげて二段めに取りかかる。二段めもこま編みで編み進める。いち。に。さん。し。ご。ろく。しち。はち。きゅう。じゅう。じゅういち。じゅうに。これまでどのくらい編んだろうか。数え切れないくらいたくさん編んだ。マフラー、帽子、かばん、セーター、靴下、ひざ掛け、カーディガン、クッション、シュシュ、エコたわし、コースター、ドアノブカバー、ポーチ、ポシェット、ペンケース。あなたが編み物をはじめたのは割合遅くて、もちろん学生時代はクラスメートといっしょにマフラーを編んだりしたこともあったのだが、受験が忙しくなったり、課題に追われたりといつしか遠ざかっていたあと、結婚し長女をみごもり、仕事を一時中断したときに再開した。三段めもこま編みで一周してから、四段めから模様編みで進めることにする。かわいい模様にしよう。女の子に気にいってもらえるように。あなたは自分もお気に入りの玉編みにしようと思う。中長《ちゅうなが》編み三目をひとつの目に編み入れる中長編み三目の玉編み模様にしよう。四段めの最初を鎖三目で立ちあげたら、まずは未完成の中長編みをひとつ編んで三目めのこま編みの頭に引き抜く。未完成の中長編みのふたつめをおなじところで引き抜く。未完成の中長編みのみっつめをおなじところで引き抜く。そして最後に中長編みの未完成になっているループを一気に引き抜けば、玉編みがひとつ完成だ。ひとつ鎖でつないで、つぎの中長編み三目の玉編みに取りかかる。いまはそんなことをかんがえもしないけれど、かつてはかんがえていたことがある。編み物はなにかに似ていると。そう、たとえば、あなたが生涯を捧げようと決意していた音楽。あなたは好きになった同級生のために、ラジオを聴きながらマフラーを編んでいた。FMラジオで、そのときクラシック音楽の番組が流れていて、クラシックだけれど現代に近い作曲家の音楽が聴こえてきた。トランペットが鋭い高音のメロディを奏《かな》で、あなたは雷に打たれたように編む手を止めた。あとでわかったことだけれど、それはストラビンスキーのペトルーシュカというバレー組曲で、そのとき以来、あなたは毛糸を編むことから音を編むことに進んだのだった。とてもつらくて大変な受験の準備と受験を乗りこえてあなたは音楽のアカデミーに進み、たくさんの音を編む道にはいっていった。そのことをいまのあなたはすっかり忘れている。いや、どうだろう。ちょっと待って。いま、孫娘のためだと思って手提げかばんを編んでいるあなたから鼻歌が聴こえてくる。そのメロディは聴いたこともないものだけれど、クロマティックな現代的なラインを持っている。ひょっとしてそれはあなたが過去にたくさん書いた曲のひとつなのだった。それをあなたはいま、口ずさんでいる。口ずさみながら五段めに取りかかっている。五段めも中長編み三目の玉編み模様で編み進めていく。五段目、六段目、七段目と、四段を中長編み三目の玉編み模様で編み進めた。ほら、とってもかわいくなってきたわ。これなら私のかわいい娘も気にいってくれるでしょう。もうすぐ小学校を卒業する私の娘。音楽にはあまり興味がないみたいなのが残念だけど、体を動かすことは好きみたいで、バレエは楽しく通ってくれている。べつにバレリーナになってほしいわけじゃないけれど、音楽とともに人生を編んでいってくれるとうれしいわね。七段めが終わり、八段めに取りかかろうとしたとき、突然あなたは手をとめる。だめ。やっぱりこれ、だめ。かわいくない。こんなんじゃ気にいってもらえない。女の子はこんなものを好きにならない。もっとかわいくなきゃだめ。これは失敗。やりなおし。最初からやりなおし。ほどいて最初からやりなおし。そしてあなたはそれまで編んだ毛糸を端からどんどんほどいていってしまう。
(最初にもどる)
(コーダ)
人生は取りかえしがつかない、すぎてしまった時間には二度ともどれない、とよくいわれるけれど、あなたはそうは思わない。あなたが編んできたたくさんの編み物や音楽や愛する人や子どもたちとの時間や、年輪を重ねたその肉体は、二度ともとにはもどらないし先にすすむしかないのだ、その先は肉体のおとろえと滅びの時間へとつながっていて、すべてのものは無に帰すのだという人がいるけれど、あなたはそのようにはかんがえていない。あなたがいま編み物をほどいているように、編んだ先から毛糸をほどいて最初にもどろうとしているように、あなた自身もいまほどかれつつある。孫娘が本当は二十三歳であることも、来月には結婚式をあげることも、手提げかばんではなく帽子をほしがっていたことも、あなたは忘れほどかれていく。自分が何歳であるのかも忘れてしまったし、目の前にあると思っている薪ストーブが本当はたんなるガラスのテーブルで冷たい光を反射しているだけであることもわからなくほどかれている。四段め、三段め、二段めと順調にほどいていって、最後の段もほどきはじめる。手のなかの編み物は幅が細くなり、ゆっくりと慎重に毛糸をほどかないとからまってひっかかってしまいがちになる。最後の段も一目、二目とほどいていき、とうとう鎖編みの作り目だけがのこる。たくさんの編み物や音楽や愛する人や子どもたちとの時間や、年輪を重ねた肉体をほどいてきたあなたは、最後の作り目だけになって、いまそこにそうやってくるみ材の肘掛け椅子に腰をかけている。そしてあなたは最後の作り目をほどきはじめる。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。
(フィーネ)
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かそけき虫の音に耳をすます
水城ゆう
窓枠にびっしりとならんだちいさなちいさなカマキリのミニチュア。
彼女は制服を着たまま、授業を抜けだして、墓地にしのびこむ。空《そら》が広くて、気持ちが晴ればれする。そしてときにはおもしろいものを見つける。
カマキリの卵が産みつけられたススキの茎を部屋に持ちかえったのは、中学が春休みにはいる前だ。期末試験は終わっていたけれど、授業はまだあった。英語の袴田《はかまだ》先生のぬるっと光っているように見える顔がどうしても気持ち悪くて、その日も授業がはじまる前に抜けだした。
いまは夏がちかづいている。欠席が多く、成績も悪かったけれど、三年生になれた。
自分の部屋の勉強机の奥のほうに、ジャムの空き瓶にさしておいたら、昨日、二匹孵化しているのを見つけた。出窓のところに移して、今日、数えきれないほどのミニチュアのカマキリが孵化した。
日曜日でよかった。
たぶん百匹以上。ひょっとして二百匹。こうなることはわかっていた。
見たかったんだ。
カマキリの卵がくっついたススキの茎を、親は一度もとがめなかった。見もしなかった。そこにそんなものがあることに気づかなかったのかもしれない。気づいたとしても、それが卵鞘《らんしょう》と呼ばれるカマキリの卵のかたまりであることは知らないだろう。
今日は出てくる瞬間をしっかりと観察できた。カマキリの幼虫は最初からカマキリの形をしていてかわいいってだれかから聞いていたけど、あれは嘘だ。カマキリの幼虫は最初からカマキリの形はしていない。最初はちいさな芋虫みたいな、細長い形をしている。調べたら前幼虫というらしい。それが外に出てきてしばらくすると脱皮する。そうすると小さなカマキリがあらわれる。でも、正確にいうと、成虫のカマキリとはちがう。なにより羽がない。
羽のないミニチュアのカマキリ。
かわいい。
開け放った出窓に、びっしりと幼虫がぶらさがった卵鞘を置いたら、みんな脱皮してから明るいほうにすこしずつ移動していく。机の上に取り残されていた先に産まれた幼虫も、紙ですくって窓枠に移動させた。
ぞろぞろ、ぞろぞろ。のろまな行進。
このうちの何匹がちゃんと大人になれるんだろうか。
出窓の端にはもうひとつ、ちいさなコップにさした木の枝が置いてある。こちらのことは親も知っている。
「クロアゲハの蛹《さなぎ》だよ」
教えてある。
「そうなの。ここからアゲハ蝶が出てくるのね」
母がいう。
「かもしれない」
「かもしれないって?」
「蝶じゃないのが出てくるかもしれない」
「蝶の蛹なのに?」
「うん。蝶の蛹に寄生する蜂がいるんだ。蛹になる前の蝶の幼虫に卵が産みつけられるの。それが蛹のなかで孵化して、蝶の蛹を食べながら成長して、蜂になって出てくる」
「蝶はどうなるの?」
「もちろん死んじゃうよ」
「気持ち悪い」
親はひどく顔をしかめる。
そうかな。気持ち悪いかな。蜂だって生まれるのに必死だ。そうやって何万年も、何百万年も命をつないできたから、アゲハヒメバチも種をたやさずに生きているんだ。
でも、まだわからない。この蛹から出てくるのがアゲハヒメバチなのかクロアゲハなのか。
蝶の蛹の横をカマキリの幼虫たちが窓の外にむかってのろまな行進をつづけている。
がんばれ、みんな。
外はみんなにとってけっして生きやすい世界ではないだろう、と思う。外の世界が暴力的で、危険に満ちていて、彼らのうちほんの数匹しか……いや、ひょっとしたら一匹も生きのこれないかもしれないということを、彼らはまだ知らない。なにも知らずに、ただ窓の外の明るい空の下へと出ていこうとしている。
もうすぐきっとお腹がすきはじめる。なにか食べなければ。彼らは一匹一匹、それぞれ獲物をさがさなくてはならない。彼らが食べることのできるちいさな虫を見つけ、それをつかまえて食べなければ、たぶん数日とたたないうちに死んでしまうだろう。もし運よく自分よりちいさな虫をみつけて、つかまえて食べることができたとしても、そのあともそれをくりかえせなければ、その時点でやはり飢えて死んでしまうことになる。
わたしは人間なので、そんな厳しい生存競争にさらされることはないな、と彼女は思う。でも、よかった、とは思えないのはなぜだろう。
ふと、英語の袴田先生が気持ち悪いと感じるのは、肌のせいではなく、しゃべりかたのせいだと気づく。なんかぬるぬるしたしゃべり方。一昨日も、宿題を忘れたクラスメートのアンナをぬるぬると遠回しに責めた。アンナはクラスで一番成績がよくて、超難関校の高校進学をねらっているのはみんな知っている。だからクラスメートも応援しているけれど、教師にはウケがよくない。命令されたりコントロールされるのを嫌悪して、教師には反抗的な態度を取ってばかりいる。教師はそれをしかりたいのに、成績は非の打ち所がないので、やりにくくてしようがないらしい。
アンナはわたしたちのスターで、アイドルだ。アンナをぬるぬると責める袴田のことばと、彼のぬるぬるした油っぽい肌が結びついて、彼女のなかに生理的な嫌悪感が生まれている。
アンナは気持ち悪い大人たちをものともしないで、いい高校に行き、いい大学に進んで、社会でもバリバリにキャリアを積んでいくのだろう。わたしはアンナのようにはなれない。わたしはアンナのようには強くない。
そう、まるでいま窓際で世界の暴力をなにも知らずにのろのろと行進しているカマキリの子どものように、弱くて、ちっぽけで、いまにも消え入りそうな存在だ。弱いものがこの暴力的な世界で生きていくには、どうしたらいいんだろう。生きのびるために戦わずにすむ世界はないのだろうか。弱いものがあたたかく受けいれられ、弱いままでいられる世界はないのだろうか。
このカマキリの子どもたちのなかに、もし大人になるまで生きのこり、パートナーを見つけ、つぎの世代をのこすことに成功するものがいるとするなら、彼は……あるいは彼女はどうやって生きのこるのだろうか。生きのこれないものと生きのこれるものの差はなんだろう。わたしとアンナの差みたいなものだろうか。
明け方に目がさめた。
カマキリの子どもたちがみんな外に出ていけるように、窓を開け放ったまま眠りについていた。それが気になって、彼女はベッドに身体を起こす。裸足のつま先で床をさわり、さほど冷たさを感じないのを確認してから、立ちあがる。
空はまだ暗い。日の出までまだだいぶ時間がありそうだ。
今日は学校があることを彼女は思いだす。
カマキリの子どもたちはもうほとんどいなくなっていた。窓枠を越え、外壁をつたって地面へと降りていったのだ。部屋の窓は隣家の壁に面しているけれど、すこし距離があって、人ひとり通れるくらいの路地になっている。砂利が敷きつめられ、雑草がしょぼしょぼと生えている。日当たりが悪く、生い茂った草が手におえなくなることはない。もちろんそこでカマキリたちが生きていくことはできないだろう。
目をこらしたけれど、地面に子どもたちの姿は確認できない。
路地の右手は道路、左手はうちと隣家の庭、そして裏の屋敷の大きな庭へとつづいている。そこなら何匹か生きのびられるかもしれない。殺虫剤がまかれなければ。
ふとなにかの物音で、彼女は首をまわす。アゲハの蛹がかすかな音を立てながら動いていた。
羽化しようとしている。背中が割れて、なかから蝶の一部が顔を出している。
蜂に寄生されてはいなかった。
蝶はだれかの生まれかわりだという話を、だれかから聞いたことがあるような気がする。幼いころの記憶、おばあちゃんから聞いたのかもしれない。もしそうだとしたら、わたしが死んだらどんな蝶に生まれかわるんだろうか。
世界がどんなであろうと、みんな命をつないで生きていく。
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世界が眠るとき、私は目覚める
水城ゆう
ゆるやかな登り坂にさしかかると、上向きにスイッチしたヘッドライトの明かりが道とガードレールと山肌をなめていく。
季節はずれの雪が春の日に溶け、いまはアイスバーンになっている。重量のない軽《けい》のパジェロは四輪駆動モードでもすべりやすく、彼はアクセルのペダルを踏みこみすぎないように注意を払う。
トンネルの手前でいったん道は平坦になり、信号が点滅している。黄色の点滅の下を抜けるとすぐにトンネルにはいる。彼はアクセルを踏みこむ。
トンネルのなかは乾いていて、緊張をややゆるめることができる。ダッシュボードのデジタル時計は午前四時十二分を示している。いつもより早いペースだ。昨日の雪の影響を考慮して、今日も冬時間での店着――販売店への荷物の到着となった。今日の店着は午前二時十五分だった。
トンネルの出口がちかづくと、彼はアクセルをすこしゆるめる。トンネルの向こう側は標高が高いべつの谷の尾根すじになっていて、凍結はさらにすすんでいると思われる。
スピードをゆるめぎみにトンネルを出ると、スタッドレスタイヤがバリバリと音を立てて路面を踏む。彼はハンドルをしっかりと握りなおす。
左にゆるくカーブしながらさらに登っていく道をいつもよりゆっくりと走らせる。その先は山のもっとも高い場所にある配達先で、いつもなら快調に飛ばすところだが、今日はそうはいかない。
このあたりは街灯もまばらで、うっすらと見える稜線の上には星がきらめいている。稜線が見えるのは、新月が近づいてだいぶ欠けているとはいえ月がまだ西に沈みきっていないせいだ。真正面のやや左手の空に、北斗七星が見えている。しかし、その正面もすぐに右に流れる。彼がハンドルを左に大きく切ったせいだ。
幹線道路を左に鋭角にまがると、そこからの枝道を街までずっとくだっていきながらの配達となる。最初の家は、枝道の入口の右側にある大きな農家だ。ここにまず、農業関係の業界紙をいれる。この家は明かりもなく、道路から玄関先まで距離があるため、彼はダッシュボードに置いた懐中電灯を手にしてから車のドアをあける。新聞を左の小脇にはさみ、懐中電灯のスイッチをいれてから、取っ手を口にくわえる。農家特有の玄関前の広い敷地を、氷を踏まないように気をつけながら進む。
この家は玄関前もコンクリートで舗装されているのだが、舗装がでこぼこしていて、いつも水溜りができている。雪を溶かすために谷川からひいた水がいつも流れるようにしてあるのだが、夜中は水は止めてある。そのために水溜りが凍結していることが多いのだ。
気をつけてはいたが、水たまりのへりの部分の目立たない氷にうっかり靴底を乗せてしまって、一瞬ツルッとバランスをくずす。ひやっとしたが、ステップでかわして、転びはしない。
敷石を踏んで玄関脇の赤いポストに新聞を投函する。
懐中電灯の明かりをたよりに、車へともどる。今度は足をすべらせない。車はヘッドライトをきらめかせ、エンジン音を響かせながら、後部のマフラーからもうもうと白いガスを吐いて、たのもしく彼を待っている。
尻から座席に乗りこみ、両足を軽く叩きあわせて靴底の氷のかけらを払ってから、アクセルにつま先を乗せ、ドアを閉めると同時に発進する。
そこからはずっと、長い下り坂がはじまる。
順調にいけば、あと一時間半くらいで配達は終わるだろう。都会とちがって、田舎は家と家の間隔が遠く、しかも車での山間部の配達なので、百軒あまりがせいいっぱいだ。都市部だと二百軒はかるく配れるだろう。郵便受けがならんでいるアパートやマンションは楽勝だし、新聞も一社が基本だ。田舎だと朝日も毎日も読売も、スポーツ新聞各紙も、それにくわえて子ども新聞、英字新聞、業界紙、週刊誌などもある。まちがえないように配達するのが大変だ。
ふだんは東京の販売店で配達しているのだが、春休みや夏休みのあいだだけ故郷《くに》でアルバイトする。最初にやるのは、どの家になにをいれるのか覚えることだ。もっとも、田舎では夕刊の配達はない。
三百メートルほど下《くだ》り、左に寄せて車を停める。朝日新聞と農業新聞を一部ずつ手にして、今度は懐中電灯を持たずに出る。ぼんやりした街灯の明かりのなかを、まずは右側の村の雑貨屋の、古びて錆だらけのポストに朝日を、道路と用水路をわたって左側の家のドアの郵便受けから農業新聞をすべりこませる。
新聞配達のアルバイトをしているのは、もちろん貧乏だからだ。世界には学生が働かなくても学べる国がいくつかあるという。しかしここは日本だ。日本はアメリカにならって、貧乏な学生は働かなければ学ぶことができない。たぶん日本という国は豊かな未来を望んでいないのだろう、と本気で思う。
とはいえ、新聞配達をしている時間は嫌いではない。世間のほとんどの人が眠っているか、あるいは眠りにつこうとしている時間に起きだして働く。やがて仕事を終えるころには夜明けがやってくる。一日のうちでもっとも美しい時間に自分が目覚めて働いていることに、喜びを感じることもある。
つぎの配達先は道路に背を向けるようにして建っている農家だ。車をぐるりと玄関先まで迂回させて進入させる。この家はいつもネギのにおいがする。朝日をいれる。
バックさせて方向転換すると、道路にもどり、ふたたびゆるい坂をくだっていく。つぎの家までしばらくあるのと、ほぼ直線にちかい道なので、彼はいつもここでシートの横に置いてある水筒を取って、水を飲む。
唇を水筒につけたとき、一瞬、塩気を感じるが、すぐに錯覚だとわかる。あのときの記憶が流れ星のように脳内に光跡をつくる。
いったん下りきった道は、橋をわたってから、ちいさな丘に向かってすこしだけ登りになる。
ゆるい上り坂の向こう――丘の上には、沈みかけたオリオン座が見えている。
丘をのぼりきると、かすかにそれと見分けがつく水平線が見える。海と空が、まだ水平線のずっと下にある太陽の薄明かりで切り分けられる時間、天文薄明だ。
彼は丘の一番高くなったところに車を停め、外に出る。
丘から平野部を見下ろす。
かつてはそこに街があった。おおぜいの人が住んでいた。道路を車が行き交い、港には荷や魚が陸揚げされていた。住宅も商店も役場も加工場もたくさんあった。彼もその街に住んでいた。
彼もまた街とともに流された。
自分が海へと濁流に連れだされていくとき感じた潮の味は、いまでも彼の唇や喉の奥に残っている。
彼は車を残し、丘を海岸のほうへと歩きくだっていく。
かつて街があったところは、いまは太古の昔そうであったように、灌木や草が茂り、小川が流れ、夜明けになればヒバリが巣を飛び立つ。浜の植物が砂地をはい、松の苗がふたたび岩のすきまから顔を出しはじめている。
あのときのように彼は海へと出ていく。打ち寄せる波しぶきが、徐々に明るくなる空の下でくっきりと形を見せている。
沖へ、沖へと出ていくにつれ、水平線は輝きを増し、すぐそこに日の出が待っていることを知らせている。オリオンはもう見えない。もうすっかり沈んだのだが、そもそももう星の光はほとんど見えない。
どこかでウミネコの声が聞こえたようだ。
彼は一刻もはやく太陽を浴びるかのように、海面をはなれ、空へと舞いあがる。
空には雲は少ないが、東の空の低い雲は日に照らされて赤く染まっている。
彼は高く高く上昇し、水平線が丸みをおびているのがわかるほどまでに高度を上げ、やがてウミネコからも見えなくなる。
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暗く長い夜、私たちは身を寄せあって朝を待つ
水城ゆう
この季節、日の出は午前七時近く、太陽は真東よりずっと南寄りの方角からのぼってくる。母屋《おもや》の屋根のむこうに隠れてまだ光はここまでとどかない。屋根から顔を出し、葉を落とした杏《あんず》と柿の木の枝のあいだから光がとどきはじめるのは午前九時をまわってからだ。それまで私たちは真っ暗な巣のなかで身を寄せあい、身体を震わせて暖をとっている。
日の光が巣箱にとどくと私たちはようやくもそもそと動きはじめる。門番が今朝の天気をつげる。氷点下近くまで冷えこんでいるが、霜が立つほどではない。水場にも氷が張るほどではない。
飛べるだろう。
花はあるだろうか。蜜は集められるだろうか。花粉は採れるだろうか。
一番の働き者たち数匹が巣門から飛びだしていく。のこった私たちはその音を聞きながら、巣箱の板がすこしずつ温められていくのを感じている。
私たちの中心には幼虫と卵がいて、彼らがこごえないように、無事に孵化するように、私たちは飛翔筋を震わせて摂氏三十度以上にたもっている。冬越しのために集めた貴重な蜜がエネルギー源だ。それが枯渇しないように、すこしでも蜜源の花があるのはありがたい。
しばらくすると飛びだしていった仲間が一匹、また一匹と、巣にもどってくる。お腹にはたっぷりの蜜がはいっていて、それを仲間に口移しで渡す。そのにおいで、枇杷の花が満開なのだなと私たちは知る。べつの仲間からはヤツデの蜜のにおいもただよってくる。
今日は冬晴れのようだ。晴れて暖かいうちにできるだけたくさん、蜜と花粉を集めておきたい。しかし、外で活動できる時間は夏よりずっとみじかく、すぐに夕暮れがやってくる。南西にそびえたつスダジイは常緑の葉を生い茂らせていて、巣箱にとどいていた日差しはもう陰っていってしまう。そうすると私たちはふたたび身を寄せあい、ふたたび朝がめぐってくるのを、暗く長い夜のなかで待ちつづける。
この季節、日の出は午前七時近く、太陽は真東よりずっと北寄りの方角からのぼってくる。母屋の屋根のむこうに隠れてまだ光はここまでとどかない。屋根から顔を出し、葉を落とした杏と柿の木の枝のあいだから光がとどきはじめるのは午前九時をまわってからだ。それまで私たちは真っ暗な巣のなかで身を寄せあい、身体を震わせて暖をとっている。
日の光が巣箱にとどくと私たちはようやくもそもそと動きはじめる。門番が今朝の天気をつげる。
一番の働き者たち数匹が巣門から飛びだしていく。
私たちの中心には幼虫と卵がいて、彼らがこごえないように、無事に孵化するように、私たちは飛翔筋を震わせて摂氏三十度以上にたもっている。冬越しのために集めた貴重な蜜がエネルギー源だ。それが枯渇しないように、すこしでも蜜源の花があるのはありがたい。
しばらくすると飛びだしていった仲間が一匹、また一匹と、巣にもどってくる。お腹にはいくぶんかの蜜がはいっていて、それを仲間に口移しで渡す。そのにおいで、枇杷の花が咲いているのだなと私たちは知る。
今朝は晴れているようだが、私たちは雨のにおいをかぎとっている。午後には雨が降りだすだろう。それまでにどれだけの蜜と花粉を集められるだろうか。いまの季節、外で活動できる時間は夏よりずっとみじかい。今日はとくに短かそうだ。
雨が降りはじめると私たちはふたたび身を寄せあい、ふたたび朝がめぐってくるのを、暗く長い夜のなかで待ちつづける。
この季節、日の出は午前七時近く、太陽は真東よりずっと北寄りの方角からのぼってくる。母屋の屋根のむこうに隠れてまだ光はここまでとどかない。屋根から顔を出し、葉を落とした杏と柿の木の枝のあいだから光がとどきはじめるのは午前九時をまわってからだ。それまで私たちは真っ暗な巣のなかで身を寄せあい、身体を震わせて暖をとっている。
日の光が巣箱にとどくと私たちはようやくもそもそと動きはじめる。門番が今朝の天気をつげる。昨日の雨は夜のうちにやんでいる。冷えこみはゆるく、大気にはたっぷりと湿り気がある。曇り空だ。
それでも働き者たち数匹が巣門からためらいがちに飛びだしていく。
私たちの中心には幼虫と卵がいて、彼らがこごえないように、無事に孵化するように、私たちは飛翔筋を震わせて摂氏三十度以上にたもっている。冬越しのための集めた貴重な蜜をエネルギー源だ。それが枯渇しないように、すこしでも蜜源の花があるのはありがたい。
しばらくすると飛びだしていった仲間が一匹、また一匹と、巣にもどってくる。お腹にはいくぶんかの蜜がはいっていて、それを仲間に口移しで渡す。そのにおいで、枇杷の花が咲いているのだなと私たちは知る。
晴れて暖かいうちにできるだけたくさん、蜜と花粉を集めておきたい。しかし、外で活動できる時間は夏よりずっとみじかく、すぐに夕暮れがやってくる。
この季節、日の出は午前七時近く、太陽は真東よりずっと北寄りの方角からのぼってくる。母屋の屋根のむこうに隠れてまだ光はここまでとどかない。屋根から顔を出し、葉を落とした杏と柿の木の枝のあいだから光がとどきはじめるのは午前九時をまわってからだ。それまで私たちは真っ暗な巣のなかで身を寄せあい、身体を震わせて暖をとっている。
日の光が巣箱にとどくと私たちはようやくもそもそと動きはじめる。門番が今朝の天気をつげる。氷点下近くまで冷えこんでいるが、霜が立つほどではない。水場にも氷が張るほどではない。
飛べるだろう。
花はあるだろうか。蜜は集められるだろうか。花粉は採れるだろうか。
昨日は何匹かの仲間がとうとう帰ってこなかった。しかし、今朝も一番の働き者たち数匹が巣門から飛びだしていく。
しばらくすると飛びだしていった仲間が一匹、また一匹と、巣にもどってくる。お腹にはいくぶんかの蜜がはいっていて、それを仲間に口移しで渡す。そのにおいで、枇杷の花が咲いているのだなと私たちは知る。と同時に、なにか不吉なにおいを私たちはかぎわける。経験のないにおいだが、それは私たちに警鐘を鳴らしているように思える。
いまの季節、晴れて暖かいうちにできるだけたくさん、蜜と花粉を集めておきたい。外で活動できる時間は夏よりずっとみじかく、すぐに夕暮れがやってくる。南西にそびえたつスダジイは常緑の葉を生い茂らせていて、巣箱にとどいていた日差しはもう陰っていってしまう。そうすると私たちはふたたび身を寄せあい、ふたたび朝がめぐってくるのを、暗く長い夜のなかで待ちつづける。
この季節、日の出は午前七時近く、太陽は真東よりずっと北寄りの方角からのぼってくる。母屋の屋根のむこうに隠れてまだ光はここまでとどかない。屋根から顔を出し、葉を落とした杏と柿の木の枝のあいだから光がとどきはじめるのは午前九時をまわってからだ。それまで私は真っ暗な巣のなかで身体を震わせて暖をとる。
もう仲間はほとんどいない。多くの仲間が出ていったきり、もどってこなかった。蜜を集めに出かける者もいない。巣は不吉なにおいで満ちている。
私はこの冬を越せるだろうか。幼虫たちはこごえ、卵は孵化しなかった。
蜜はたっぷりある。この冬を越せさえすれば私も……
私は身体を震わせ、ふたたび夜が来てふたたび朝がめぐってくるのを、それが何度くりかえされるのだろう、かぎりなく繰り返されるように思える夜と朝の交代ののちにやってくるはずの春を、寒く暗い巣箱の奥で待ちつづける。
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待つ
水城ゆう
私は待っている。湖というより池といったほうがいいような、川の支流がせき止められてよどんでいる沼地のほとりで、折りたたみ椅子に座っている。私が待っているのは、動きだ。いまは止まっていて動かない浮きが、動いて水面の下に沈む瞬間を待っている。
動かない、といったが、実際にはわずかに動いている。いまはほとんど風がない。それでも水面はまったく鏡のように平らというわけではなく、支流から流れこんでくる水の動きでかすかな波紋が生まれている。浮きはその波紋と、ほとんどないとはいえときおりゆっくりと水面をなでて渡ってくる風によって、わずかに揺れている。その浮きが、ちょんちょんと上下に揺れ、水面に丸い波紋を描き、そのつぎの瞬間にはすっと水面下へと引きこまれて消える瞬間を、こうやって私はもう一時間も待っている。
古びたぜんまいを巻きあげるような鳴き声をあげながら、目の前の水面をオオヨシキリが横切って飛ぶ。
爆撃にやられた市街地にはまったく動きはない。私は瓦礫の下に身を潜め、待っている。冬だ。気温は氷点下だ。レニングラードの冬に戸外でじっと動かずにいることは、自殺行為に近い。死なないまでも手足や耳、頬を凍傷にやられる。そんななか、私は夜明け前のまだ暗い時刻にここにやってきて、ここに身を潜めている。分厚い毛皮の帽子と耳あて、外套にすっぽり身をくるんでいる。銃身は濡れた手で触ればそのまま皮膚が接着してはがれてしまうほど冷えこんでいるはずだが、トリガーには温めた指をかけている。指を温めなおすために、ときおり下腹部に手をいれ、睾丸をもむよう触る。レニングラードが包囲されてもう十五か月、情報では今朝八時すぎに、ドイツ軍の少将があそこに見える駐屯地に到着することになっている。彼が車から降り、私のライフルのスコープにとらえる瞬間を、私は待っている。
どこかから煙のかすかなにおいがただよってくる。私は無性に火が恋しくなる。
雨季のマングローブ林はさまざまな音とにおいに満ちている。乾季にはほぼ干上がっているこの林も、いまは人の背丈くらいの深さまで浸水している。
私は待っている。水底に打ちこんだ杭のてっぺんに尻を乗せ、両脚を杭にからめて水面をのぞきこみながら、待っている。この下にきっといずれ通りかかるピラルクーの輝かしくきらめく巨体を、手製の銛《もり》をいつでも放てるように構えながら、待っている。
肉は市場で高く売れるし、塩漬けにしてもよい。それもまた自家用にはもったいないほど高く売れる。うろこは靴べらや爪やすりとして土産物屋に高く売れる。とくに大型のものは珍重される。
去年のシーズンには最大で五メートル級を仕留めた。今年も大物をねらっている。だから、尻が杭に食いこんで痛くなっても、両足が攣《つ》りそうになっても、全身がこわばっても、一瞬たりとも水面から目をはなさず、銛の構えも解かずに、待っている。
雨季の森はさまざまな鳥の声で満ちている。熟した果物の濃厚なにおいがただよってくる。たまに熟れきった果実が水面に落下する音も聞こえる。遠くの密林のほうからホエザルのせわしない鳴き声が聞こえてくる。
ここからは見えないけれど、海のほうからは湿った空気が吹きつけてくる。私は尻を高くかかげて待っている。大西洋からの湿った風は、このナミブデザートを吹きぬけていくが、私は尻を大きく空中に突きだして身体全体でその風をさえぎる。わずかに冷たい私の身体は、湿り気のある風があたるとわずかに結露する。私はそれをただひたすら、待っている。
私の身体の表面には突起やでこぼこがあり、結露した水滴は身体の表面をつたわって私の首のうしろに集まってくる。すこしずつ、わずかずつ、結露した水滴が伝わって集まってくる。私はそうやって一晩中待っている。朝方になると、集まった水滴は私の頭のうしろに大きなかたまりとなる。その水分のおかげで、まったく水場のないナミブデザートでも私のようなビートルも生きぬくことができる。生きぬくために、私は待つ。いまも夜の時間がすぎ、灼熱の日がのぼる前の至福の一瞬を待っている。
軍楽隊の音楽が聞こえる。道端の群衆の歓声が聞こえる。まさにいまテレビ中継されているその音声が、どこかのスピーカーから拡大されて流れてくる。ダラスの街を見下ろしながら、私はもう二時間半も待っている。私の姿はだれからも見えないはずだ。私は建物の上に姿を隠し、狙撃用のライフルを構えている。照準を合わせたスコープのなかにはパレードのために通行規制された道路や、旗を持った沿道の観衆が見えている。
今日は金曜日。正午をすぎて二十数分がたとうとしている。やがて視界のなかにパレードの車列を先導する白バイが三台、見えてくる。道はばいっぱいを使って邪魔者を警戒するように白バイが通っていくその後ろから、黒のオープンカーとセダンがくっつくようにして走ってくる。そのまわりを何台もの白バイが取りかこんでいる。
オープンカーの後部シートにジョン・Fの顔を確認する。すぐ横にはジャクリーンもいる。私のライフルのスコープにはほぼ正面にジョン・Fの頭部が見えていて、照準の中央に彼をとらえる。
窯では薪《まき》が赤々と燃えている。時々火がはぜる音がする。薪は先ほどみんなで、慣れない腰つきで割ったばかりだ。その薪をフィルが煉瓦《れんが》を組んで作ったピザ窯で燃やし、窯のなかを充分な温度にする。だから、薪はストーブに入れるよりも細く、最終的には鉈《なた》を使って割った。
窯小屋の外は徐々に夕闇が落ちて星々の輝きが見えはじめている。私はピザ生地が発酵するのを待っている。生地が発酵したら、丸くのばして、具を乗せ、それを窯にいれて焼く。私はそれを待ちどおしく待っている。
私は待っている。ハレー彗星がやってくるのを。この前にハレー彗星がやってきたのは一九八六年で、そのときも私は七十五年待ったのだった。いまもまた七十五年待っている。満天の星だ。オリオンが東の空からのぼってくるのが見える。ミルキーウェイも見えるような気がするが、ひょっとして雲なのかもしれない。南の空に出ていて、ミルキーウェイは見えないだろう。つぎにハレー彗星がやってくるのは二〇六一年だ。私はそれを待っている。
私は待っている。半減期を。半減期の半減期を。半減期の半減期の半減期を。しかし、それは永久になくなりはしない。人にも半減期はあるのか。私は待っている。
もうすぐ息がたえる。私は待っている。自分の呼吸が止まるのを。自分の鼓動が停止するのを。だれかがご臨終ですと告げるのを。私はそれを聞くだろう。その声を私は待っている。
まだ声が聞こえる。街の音が聞こえる。部屋の音が聞こえる。私は待っている。
外からは人々の話し声が聞こえる。学生街で、若い男女の笑いあったり、ふざけあったりする声が聞こえる。車が通りすぎる。すこし離れた甲州街道からは救急車のサイレンが聞こえてくる。
室内には人が何人かいる。話し声はしない。みんな耳をすませて聞いている。ピアノの音を。朗読の声を。それらがしだいに静まり、間遠になり、沈黙の比重が増していくのを私は待っている。
まだ聞こえる。ピアノの音が。もうほとんどまばらにしか聞こえないが、まだぽつりぽつりと聞こえてくる。朗読者の声も、とぎれがちだが、まだ聞こえる。
まだ聞こえる。
それらが完全に聞こえなくなるのを、私は待っている。
それらが完全に
(おわり)
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コンテナ
水城ゆう
なかを泳げるほどの濃霧の朝、ぼくらは出発する。
ぼくらを岸壁から引きはなしたタグボートがはなれていくと、フォグフォーンを一発。ながく尾を引く警告音が港内にひびきわたり、ぼくらは白灯台を右に見ながら外海《そとうみ》へと乗りだす。
波はない。波高ゼロ。油を流したように凪《な》いだ海面を、濃い霧がなめている。その霧と海面の境界を分けて、ぼくらのコンテナ船五万トンがゆっくりと進んでいく。五万トンの海水が右と左と下へと分けられ、巨大なスクリューによって後方に押しやられる。巨大な質量の移動だが、それは静かにおこなわれる。聞こえるのは低くくぐもったディーゼルエンジンの音と、ひたひたと船腹をなでる水音だ。
カモメが何匹かついてきて、船のまわりをせわしなく調べる。自分たちに餌を投げあたえる人影がないかどうか、調べているのだ。が、出港時のいそがしい時間に、そんなことをする乗組員はいない。すくなくともぼくらのコンテナ船にはいない。もしいるとしたら、暇を持てあますか、酔いざましにデッキに出てきた客船かフェリーの乗客くらいだろう。
コンテナ船が沖へ出て、エンジン音が変化すると、カモメたちもあきらめて霧のなかへと去っていく。
霧もまた、急速に薄れていくようだ。
陽が射しはじめると、濡れていたコンテナもあっというまに乾いていく。陸地近くでは凪いでいた海面も、沖合に出るとわずかなうねりを見せはじめる。ほとんど揺れはしないが、わずかに平行が傾くと、老朽化したドライコンテナの継ぎ目からノイズミュージックが聞こえはじめる。
ぎしっ、ぎしっ、かちゃん。
ぎゅっ、ぎしっ、かちん。
それぞれのコンテナはセル・ガイドにそって固定されていて、船が揺れても荷崩れの心配はない。積荷も船体そのものも、巨大ハリケーンにも耐えるように作られている。ぼくらは海に出てすでに十五年を経たベテランだけれど、まだまだやれる。現役まっさかりといっていい。
ぼくら大型コンテナ船は、各地のハブ港に集結したコンテナ貨物をさらに積みかえ、世界をまわる。香港、シンガポール、ドバイ、ハンブルグ、ロッテルダム、ブレーメン、ニューヨーク、ロサンゼルス。地球を何周したことだろう。人々が見たこともないような光景をたくさん見てきた。
フォークランド諸島の沖合で無数のクジラの群に遭遇したことがある。吹きあげる潮と壮大な合唱で、海がだれのものなのか思い知らされた気がした。
ペルシャ湾では巨大な空母とそれから発着する戦闘機を見た。彼らは昼となく夜となく働いて、思想信条のことなる人々を殺戮するのに余念がなかった。ぼくらのすぐ上をミサイルが飛びすぎたこともあった。
冬のノルウェー沖では満天に踊り舞うオーロラに怖れおののいた。それらはときに天使の舞のように、ときには悪魔の牙のように、ぼくらの身体のなかにまではいりこんでくるような気がして、生きたここちがしなかった。
夏の日本海ではイカ釣り漁船団のまっただ中を通過したこともあった。無数のまばゆい集光灯が、まるでそこに一機の巨大な宇宙船でも着水しているような錯覚を見せていた。
いま、ぼくらは、霧が晴れ、まばゆい陽光を受けながら、おだやかな南シナ海をすすんでいる。高雄、香港を経由し、いまはシンガポールに航路を取っている。この航路では何度か台風に見舞われた。でもぼくらはそのつど、台風の目が頭上を通過するなかを、五万トンの水を分けながら進んでいった。十二メートルに達しようという波もものともせず乗りこえてきた。五〇メートルを超えるほどの風速でも、きっちりと積みあがったコンテナの位置は一ミリも狂わなかった。
ぼくらの右のほうからかなりの速度で、おそらく中国籍の漁船がちかづいてくる。大きな漁船でも、何人かの男が船べりで立ち働いているのが見える。これから遠洋に出かけるのだろう。彼らはぼくらの後方をすり抜け、左後方へと遠ざかっていく。漁船がけたてる白い波が静かな海にくっきりと航跡を残す。ぼくらの航跡もまた、黒々とした海面の色をうすくかきまぜて、まっすぐ後ろへと、速力24ノットでのびている。
コンテナ船の仕事は、入港前と接岸時、そして入港後がピークだ。よく、遠洋航路の船員はいろいろな土地を訪れることができることをうらやましがられることがあるが、実際には入港してものんびり上陸して観光しているような時間はほとんどない。ガントリークレーンによる荷揚げ、荷積み、積み込みのプログラム、コンテナの計数、マニフェストとの付きあわせといった山のような仕事がある。接岸するとほぼ一日がかりで荷揚げと荷積みがおこなわれるが、それでも何百個というコンテナの入れ替えが一日しかかからない。そして乗組員はのんびり上陸を楽しむ時間はほとんどない。
港を出てしばらくし、点検、データ確認などの作業が終わると、ようやくひと息つける。しばらくは退屈との戦いの日々となる。
香港を出て半日、ちょうど秋分に差しかかろうという秋の太陽が、いま、西の水平線へと落ちかかっていく。ぼくらはそれを、朝がたに中国の漁船が去っていった方角、左舷後方に見ている。
左舷後方の水平線近くには、いつの間にか薄い雲がかかっている。たっぷりバターを使ったパイ生地のように層状になっていて、太陽はまさにその層のあいだをくぐり抜けて沈もうとしている。大気圏で光がゆがみ、倍の大きさになった太陽。空中の塵で青色が拡散し、オレンジの火球と化した太陽。オレンジ色は雲と空と、それを映す海面をもそめあげる。
一瞬たりともとどまらない変化のなかで太陽は水平線へと急速に落ちていき、やがて溶けこむように海に呑みこまれて消える。
赤の光は空にとどまり、やがて紫から青みを帯び、暗く沈んでいく。光量が急速に減衰し、宇宙の背景があらわれるとともに、星々が姿を見せる。
ぼくらの船は星空にブリッジを高々と突きあげ、左舷の緑色灯と右舷の赤色灯をほこらしげに輝かせて進みつづける。
夜がふけると、船員たちは当直と眠れない者を残してほとんどが、それぞれの寝台で寝静まる。当直の航海士は操舵室に立っているが、ぼくらはオートパイロットで航海しているし、なにか障害物があればレーダーが知らせてくれる。当直も四時間の辛抱で、真夜中が来れば交代して自室にもどれる。あるいはしばらく星でも見ようか。今夜はミルキーウェイが見られそうだ。
と、レーダーに右舷からなにか接近してくるものが映る。船ではない。低く飛ぶ航空機のようだ。旅客機ではない。軍用機、速度からして戦闘機かもしれない。南シナ海は 東シナ海ほどではないにせよ、さまざまな軍事的緊張がある海域で、ぼくらもいろいろな軍事的事象を見てきた。空母や護衛艦、駆逐艦などの艦船はもとより、いまのように航空機も軍用のものを頻繁に見る。浮上した潜水艦が休んでいるのを見たこともある。あれはひょっとしてエンジントラブルで停止していただけだったのかもしれない。
ぼくら民間船が港と港をつないで人々に物資をとどけているあいだにも、軍用船はあっちへいったりこっちへいったりと、ぼくらみたいに忙しそうにしている。ぼくらコンテナ船が車の部品や、衣服や、コーヒー豆や、缶詰や、パスタや、ワインや、果物や、材木や、冷凍肉や、スパイスや、本や、電気製品を運んでいるあいだにも、彼らはダミーの的になっている廃船に向かって大砲を撃ったり、戦隊を組んで演習したりしている。
レーダーの機影は、やがて左舷方向に消えていった。
夜中がちかづいてくる。
このあたりの緯度だと、この季節でもさそり座がくっきりと前方に視認できる。アンタレスの目玉がひときわ赤い。
そしてミルキーウェイ。
それを斜めに横切っていく人工衛星。
すこし波が出てきている。といっても、一メートルかそこいら。二メートルはない。
波を切る音が立つ。暗闇でほとんど見えないけれど、航跡はさらにくっきりと白いことだろう。
ぼくらは闇と黒い海面を切りわけて、力強く進む。
ぼくらが運ぶのは、さまざまな国の、さまざまな人種の、さまざまな階層の、さまざまな立場の、さまざまな人々のいとなみのための物資。ぼくらを待っている人が、世界中にいる。
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薪を割る女、蜜蜂
水城ゆう
ちょっと億劫な気がして後回しにしていたけれど、今日は陽が高くなってもだいぶ涼しくてすごしやすい、たまっていた薪《まき》割りをいくらかでも片付けよう、と彼女は決める。
それにしても、今年の夏は異常だった。というより、このところ異常なことが平常になっている。今年はいつまでも気温があがらずに雨ばかり降っていたかと思うと、いきなり暑くなってそれが何日もつづいた。かと思うと、いきなり涼しくなって、まるで一瞬にして夏が終わってしまったみたいだった。だからといって、春が長かったという感じもない。
いまは秋で、秋が長くなった感じがするかもしれない。冬になってみないとわからないけれど。
土間に立てかけてある薪割り用の斧を手に取ると、彼女は表に出る。家の前は雑木林で、斜面を降りると谷川に出る。いまも渓流の音が聞こえている。数日前の台風がもたらした雨のせいで、水かさが増している。もっとも、もう濁り水ではないことは、今朝がた確認した。
家の横手にまわる。そこは畑で、その向こうには村の舗装された道路、ずっと向こうに何軒かの家、そして山並が見える。まだ秋空というより、夏の名残《なごり》の綿雲《わたぐも》が山のいただきの向こうからこちらにゆっくりと流れてくる。
道路脇の畑の端に、林業組合の源《げん》さんに運んでもらった間伐材が積みあげてある。コナラやブナなどの雑木で、太さもまちまち、材木にはならないような切り株も混ざっている。一輪の手押し車を押していって、手頃な太さの木を積む。それを薪割り場まで運ぶ。
薪割り場といっても、ひときわ大きくて安定している切り株をひとつ据えてある畑の脇のただの空き地で、割った薪を積みあげておく下屋《げや》に近い。すでにいくらかの薪が積んである場所の、家の角のほうには、みつばちの巣箱がある。今日も巣門を盛んに出入りする羽音が聞こえている。
手押し車をひっくり返して間伐材をぶちまける。間伐材は源さんがあらかじめ薪にちょうどいい四、五〇センチの長さにカットしてくれている。適当な一本を選び、切り株の上にすえる。太さからいって、このコナラの木からは薪が四、五本、取れるだろう。
斧を振りかぶり、振りおろす。斧の刃が切り口の中央に食いこみ、そのまま木を一気に縦に割る。小気味のいい乾いた音が谷にひびく。
やがて六十にもなろうという女手で薪割りなどやっていると、若い連中からびっくりしたような、やや同情が入りまじった視線を向けられることがある。げんに娘の朋子やその一家は、年に一度都会から帰省するたびに、危ないからやめて、怪我したらどうするの、そんな仕事だれかに頼めばいいじゃないの、薪を買うお金に不自由があるわけじゃないでしょう、などという。そもそも、そんな大変な仕事をなんでお母さんがやらなきゃならないの、と。
大変なんかじゃない。もちろん、大量に割らなきゃならないとなると大変かもしれないけれど、大変なことになる前にやめたり、休んだりする。けっして無理はしない。身体を使う仕事が彼女は好きなのだ。だからつらい思いまでしたくない。
女には大変な力仕事だろうと思っている者もいる。実際、朋子の夫である婿さんはまだ三十代なかばにもかかわらず、まったく薪割りがうまくできない。子どもたちはなおさらだ。それは力の使い方や、身体の使い方がうまくないだけなのだ。
たしかにある程度の力は使うけれど、婿さんのような力の使い方はしない。婿さんはやたらと力んで、腕の力で薪をたたき割ろうとする。彼女は腕の力などほんのちょっぴりしか使わない。斧があらぬ方向に飛んでいかないように軽く握っているだけだ。彼女が使うのは、もともと自分のなかにあるもっと強靭な筋力のほうだ。それは五〇キロ以上ある彼女の身体を楽々と運んでいる、彼女の中心部にある筋肉と、体重そのものだ。それを斧の先端に集めれば、薪は軽々と割れる。まったくどこも力む必要はない。
ぽんぽんとおもしろいように薪が割れるのが楽しくて、まるで初霜の朝、少女が霜柱を踏みくずすのを楽しむようにして、彼女は薪割りをする。
たちまちひと束の薪ができる。
つぎの束に取りかかりながら、彼女はふとみつばちのことを思う。この下の黒谷のみつばちは、この夏、五箱あった巣箱が、アカリンダニとスムシにやられて全滅したという。ダニもスムシもみつばちにとっては強敵だが、蜂の群が強ければ全滅するようなことはまずない。彼女のみつばちも黒谷から分封したものだが、いまのところ元気だ。巣のなかにはダニもスムシもいるのかもしれないが、負けずに元気で働いている。
みつばちの元気がなくなるのは、いろいろな理由がいわれているが、もっとも影響があるのは農薬だ。ここの谷に比べて黒谷は大きな集落で、田んぼも機械化が進んでいる。農薬もきっと最新式のものをたくさんまくのだろう。強い農薬をまかれれば、みつばちに限らず虫たちはたまったものではない。
谷に虫がいなくなれば、鳥もいなくなる。鳥もけものもいなくなったら、だれが森を作るというのだろう。
彼女の谷はせまくて、機械をいれにくい。ほとんどが棚田で、ほとんど耕作放棄地だったのが、ここ数年、都会から大学生たちが来て、自然農法とやらで米を作りはじめている。農薬は使わないので安心だ。彼女のみつばちもそのために元気なのかもしれない。
三束、四束と薪の束を作ってから、彼女はみつばちの巣箱のようすを見に行く。ちょうどこの時間、巣箱の入口には、日の光があたっている。夏には巣箱のなかの温度があがりすぎないように、何匹かのみつばちが巣門にならんで風を送っている光景が見られた。いまは一、二匹がたまにやっているのが見える。
先週、巣箱を調べたとき、ずっしりと重くなって、順調に蜜がたくわえられているのがわかった。そろそろ採蜜の時期だろう。採蜜の作業は神経と体力を使いなかなか大変だけれど、ここ数年やっていることなので、ひとりでやれないことはない。
谷でひとりで暮らし、作物を作り、ときにはキノコや山菜を採取し、みつばちを飼う。薪を割り、風呂をわかし、星空をながめながらひとりではいる。みつばちは仲間のような気がしていて、おかげで寂しくはない。
人生の終わりがどのようになるのか想像できないし、かんがえてもしかたのないことだと思う。一匹のみつばちの生涯も、活動期の働き蜂なら一か月ちょっとしかない。卵から幼虫、蛹になり、成虫になったら、幼虫や女王蜂の世話や、巣作りや掃除の仕事をしたあと、外に出て蜜や花粉を集める仕事をする。
彼女もまた、いま、薪を割り、野菜を作り、山菜やキノコを摘み、みつばちを育て、森を作る。そこにはなんの栄光もないように見える。でも、本当にそこにはなんの栄光もないのだろうか。
自分のみつばちたちが元気に働いているのをたしかめると、彼女はもうすこし薪割りを進めておこうと思う。薪割り場にもどり、今度はすこし腕がためされそうなブナの大きな切り株に取りかかる。
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今朝の蜜蜂は羽音低く飛ぶ
水城ゆう
日が出たばかりの畑を、雨滴をためたミゾソバを踏みしめ、柔らかな土の感触に警戒しながら、彼女はゆっくりあるく。目的を持って。まっすぐに。
ひさしぶりに雨があがった。谷の空気はたっぷりと湿り気をおびている。決然と歩く彼女の影は、くっきりと長く背後へとのびている。
ふいに耳の至近距離を振動音が通過する。
ぶうん。
蜜蜂が一瞬にして通過していくが、すばやくて姿を追うひまもない。
さらにもう一匹。
ぶうん。
うるさいな。
彼女は口のなかでつぶやく。自分がほんとうにそうは思っていないことを自分でも知っている。しかし彼女はもう一度いう。
うるさいな。
蜜蜂にむけていっているのではないことに、すでに気づいている。
うるさいな、もう。あいつも、あの子も、おかあさんもおとうさんも、それから自分も。自分がいらいらしていることに気づき、そのことでさらにいらいらする。なんでなんでもないのにこんなにいらいらするんだろう、うざいよ、もう、自分。
ぶうん。
蜂が飛びさった方角には養蜂箱がならんでいる。一列、二列、東西の方角に長くならんでいる。たぶん三十箱以上ある。べつの畑にもある。山向こうの谷にはもっとある。うちの仕事だ。
梅雨も終わりに近づき、夏も本格的になると、蜜が取れる花もすくなくなる。幼虫や女王蜂のために、働き蜂たちはたくさん働きたくなっているのかもしれない。
ならんでいる養蜂箱の一番端から異常はないか点検していく。電気で対策はしているけれど、山からの動物がまれに箱を襲うことがある。あるいは、蜜蜂が病気になったり、ダニやスムシにたかられたりして、被害をこうむることもある。なにか異常があれば、生まれたときから蜜蜂とすごしてきた彼女には、すぐにわかる。だから、朝の見回りは彼女の仕事になっている。
眠いけれど、朝一番のこの仕事をいやだと思ったことはない。谷の空気を吸い、蜜蜂たちといっしょにいる感じは、彼女を落ち着かせてくれる。しかし、今朝は理由のないいらいらが彼女をわずらわせている。
いらいらを追いはらおうと、彼女は蜜蜂の点検に集中する。もう花粉を持ち帰ってきて、巣箱にもぐりこんでいく蜜蜂がいる。うしろの両足にくすんだ黄色の花粉だんごをくっつけて帰ってくる。よかった、この子はどこかに花を見つけたんだ。それを仲間に知らせて、みんなが取りに行くことだろう。そしたらこれは、幼虫の体を作るタンパク源になる。
クラスメートで養蜂の仕事を理解している者はいない。担任の霜島先生だって理解しているとは思えない。
今年の春、年度が変わったばかりのころ、霜島先生から訊かれた。
「ミツバチが全滅しちゃう病気が世界中で流行しているらしいけど、おまえのところはだいじょうぶなのか?」
蜂群崩壊症候群というやつで、日本ではまだそれほど大きな問題になっていないけれど、欧米では大問題になっている。ダニ、ウイルス、農薬など、いろいろな原因がさぐられているけれど、まだはっきりとしたことはわかっていない。特定の農薬を糾弾する環境運動家もいるけれど、問題はそれほど単純じゃない、とおとうさんがいっていた。
霜島先生が心配してくれていることがわかって、そんなことを伝えたのだけれど、うまく伝わったかどうかはわからない。
クラスメートたちとそんな話はまったくできないし、する気も起こらない。みんな、ゲームかアニメかファッションか、友だちや友だちの家のことや先生たちの噂話か、どうでもいいようなことを一日中熱心にしゃべっている。
彼女は突然、自分がなんにいらだっているのかわかったような気がする。
そうだ、あたしはみんなの愚かさにいらだっているんだ。いや、みんなだけじゃない。先生たち大人も、社会全体も、あたし自身も愚かで、なんにもわかっていない。もっといっぱい知りたいのに。もっといろんなことがわかりたいのに。
日がだいぶのぼった。まだ穂をつけていないススキの葉先には乾ききっていない水滴がキラキラと光っている。その手前を、金色に光った蜜蜂たちがピュンピュンと山に向かって飛んでいく。斜め三〇度くらいの角度で飛びあがり、すぐに見えなくなってしまう。その先の山すその谷川ではアオサギが岩の上から朝食を物色している。
世界はこんなに美しいのに、美しく見えているだけなのかもしれないと思って、彼女は苦しくなる。
一番奥の巣箱の前で、彼女は足をとめる。なんとなく養蜂箱のふたをそっと持ちあげてみる。面布は着けていない。なかでは数万匹の蜜蜂が団結しているサインのジュワジュワという羽音をいっせいに立てる。
異常なし。
ひたいに一匹のミツバチがコツンとぶつかってきた。
「ごめんごめん。邪魔しちゃったね。すぐに閉めるからね」
刺されはしないことを彼女はよく知っている。でも、もっともっとミツバチのことを知りたい。おとうさんよりももっとたくさん知りたい。知りたいのはミツバチのことだけじゃない。
神さま、あたしにこの世の秘密を教えてください。
祈りながら、彼女はそっと箱のふたを閉める。