公演「キッズ・イン・ザ・ダーク」の来場者アンケートより

ご来場いただいた方々が書いてくれたアンケートから、抜粋してお送りします。
「どのシーンが印象的でしたか」という質問でした。

◎「雨ニモ負ケズ」聞くたびに読むたびに静かにドキドキする詩ですが、おおぜいでの朗読は初めて(?)で下。先生の生演奏とのマッチがとってもステキでした!(28歳女性)

◎朗読というより「動き」があったことに驚いた。初めての体験で新鮮でおもしろかった。(47歳)

◎勿論、自身のなじみのある(思い入れのある)詩が印象的ではありましたが、一つは猫。ダダであり、能動的な気(病)の演出が感じられました。全体では言葉一つ一つが編まれ、消され、また重なっていく様が聴いていて心地良さと程良い緊張がございました。動きや声の変化が楽しみです。(23歳男性)

◎全て、コトバと感情の足し算、引き算、かけ算、割算。たくさんの知的刺激をもらいました。ありがとう。(45歳男性)

◎言葉の内容に意味が無く一人一人の感じている感覚が音になっている時、人ごみの雑多な感覚が伝わってきた。不思議な表現でしたが、楽しかったです。(48歳男性)

◎赤ん坊が……子どもが……の朗読。草枕はたまたま昨日、話に出たので、何となく聞き入った。全体的なパフォーマンス、1人1人の表現がステキだった。楽しかった。自分も入りたくなった。表現がやわらかくてよかった。(39歳女性)

◎「赤ん坊が笑う」同じ言葉のくりかえしの中で、1回1回、新しい発見があった。熱い思いが伝わりました!(49歳女性)

◎以前、体験ワークショップに参加して以来、webpageを時々拝見していました。オープニング、暗闇でも音があれば不安にならずに周りの人と高揚やこれから何が始まるんだろうか? といった気持ちを共有できるのだと新鮮に思いました。客席と触れるような近さであんなに堂々と思いきったパフォーマンスを行なえる皆さんが、本当にすばらしいと思いました。腹の底から元気がわきました。(27歳女性)

◎意味をとるんじゃなくて、声のかさなりを楽しんだ。遠ぼえのシーンが一番良かった。声が上にのぼっていくイメージを感じた。(30歳女性)

◎菜の花で会話をしているみたいで面白かったです。いろんな会話が聞こえてきそうでした。楽しかったです。(14歳女性)

◎初めて現代朗読のliveを拝見致しました。何かわからないけれど込み上げる物がありました。hotでした。暑い中の練習にも負けない強さ、生きる力を感じました。(50代女性)

◎「猫」朗読+動きという、何しろ初めて見ましたので、感想? がすこし時間がたたないと出ません。(80歳女性)

◎赤ん坊が笑う……のところからぐるぐる円になっていったところが印象的でした。見ていて楽しかったです。ほんとに皆さんそれぞれ個性があって、声、体のうごきもいろいろで、おもしろいなむと思いました。

◎風を感じました。ちょっとせつなくなりました。なんでだろーね??(41歳女性)

◎いちめんの菜の花(大人数での)。黄色の菜の花ではなく、ポリゴンの様なモノクロの菜の花からパステル色の様ないろんな菜の花へと変化する様なイメージが伝わってきました。以前一度見せて頂いたのですが、より洗練されていて、別の次元へと昇ったかの様な印象を受けました。これからも是非続けてください。(26歳男性)

◎最初の暗やみが恐かった。でも朗読の世界観をとても自由に表現されていて、ショウゲキ的でした。朗読って色々な表現の仕方があって素晴らしかったです。みなさんそれぞれ個性的で面白かったです。(40歳女性)

ご自分のブログで丁寧な感想を書いてくださった方もおられます。
「水のきらめき」

げろきょ徳島ツアーレポート(2日め)

2012年7月16日。海の日。
徳島の朝が明けた。
昨夜は体調を回復すべく、早めに休んだおかげで、喉も体調もほぼ完調。
ただし、夜中に何度か足がつった。
昨日のワークショップではりきりすぎて、ずっと立ったまま熱弁をふるったせいだろう。
ま、それはいい。

昨日もそうだったが、今日もすばらしく晴れた。
非科学的ないいかたではあるが、私は晴れ男である。
まあ、偶然にも行動パターンがそのようなことに重なったというだけのことなんだろうけれど、重要なイベントではほとんどが晴れて、雨に降られて困ったというのは数えるほどしかない。
まあ、数えるほどはあるのだが。

ともあれ、今日は晴れた。
早起きしたので、ホテルを出て、ブラっと散歩してみた。
きゃたおかさんも早起きの人で、ツイートを見たらすでに散歩に出て、かなり遠出をしているようだ。
私は駅前あたりの近場を少し散歩してみた。
だいたい、街の雰囲気はつかめたが、休日の早朝ということもあって、街はほとんど活動していない。

7時すぎにホテルにもどり、荷物をまとめてから、食堂でコーヒーとサラダ。
朝食付きのプランだったが、朝からうどん屋に連れていってくれるというたるとさんの言葉があったので、セーブしておく。

約束の8時ぴったりに、たるとさんとご主人が車で迎えに来てくれた。
さっそく乗りこんで、出発。
めざすは朝うどんの地、隣県のうどん県、讃岐香川県。
すばらしい景色を堪能しながら海岸線を通って、香川県にはいる。
引田という地区にある、名前のない海辺のうどん屋へ。

ここは昨日ほどではないというものの、景色がいいから来た、とのこと。
いやいや、しかし、ここのうどんもなかなか。
たしかに昨日のうどんとはやや趣向が違うものの、私が食べたざるうどんは腰があり、かけうどんはいい意味で柔らかい感じ。
朝っぱらからふた玉と天ぷら3種をあっという間に平らげてしまった。
毎日でもいけるぞ、こんなの。

食後は目の前にひろがるビーチに出て、ひさしぶりに海辺を堪能する。
女性陣は靴と靴下を脱いで波打ち際に足をひたし、気持ちよさそう。
海から吹く風がこの上なく気持ちいい。
水面近くをツバメが飛んでいたり、カモメが飛んでいたり、はるかかなたにはミサゴらしき鳥影がホバリングしていたり、そして東京から来た我々を歓待してくれたのでもないだろうが、すぐ近くの水面を種類のわからないそこそこ大きな魚が何度もジャンプして姿を見せてくれたりと、楽しいのなんのって。

うどんで満腹したあとは、鳴門方面に向かう。
途中、たるとさんのご主人が一番気にいっているという、堀越海峡にかかる橋の上から潮の流れをながめる。

高所恐怖症の人は肝を冷やす景色だろうが、これが絶景。
有名な鳴門の渦潮を見た気になってしまう。

しかし、やはり本物の鳴門の渦潮に連れていってもらった。
鳴門大橋をバックに記念撮影。
観光客がぞろぞろいて、先ほどの堀越海峡よりはよほど俗っぽい。
が、それなりに明媚な風光ではある。

鳴門から徳島市内にもどり、今度は阿波人形浄瑠璃で有名な十郎兵衛屋敷に行く。
なんだかたるとさん夫妻には、我々の観光案内係をやってもらっているような気がして、申し訳ない。
しかし、せっかくなので、徳島をせいいっぱい堪能させていただく。
そしてげろきょ陣はそのことに遠慮なく、マインドフルに子どものように楽しんでいるのだった。

阿波浄瑠璃は伝統があり、大阪の文楽は多少違った発展をしたようだ。
私は大変興味深く見せてもらった。
そして、義太夫というか、浄瑠璃語りの手法をつぶさに見て、語り、朗読、謡い、音楽の関係についてさまざまに考えをめぐらせた。
とても収穫が大きかった。
今日のこの体験は、いずれどこかで現代朗読に生かせるときが来るだろうと思う。

飛行機の時間も迫り、徳島空港に向かう。
徳島は滞在24時間とちょっとだったが、本当に楽しい時間だった。
あっという間、ではなく、充実していたのでまるで何日にも感じられた。
そして、徳島空港では、最後に、徳島ラーメンをいただこうということになった。
徳島ラーメンの特徴は、とんこつスープの醤油味に、チャーシューや、味付けした豚バラ肉がトッピングされていることだ。
そして味が濃いので、ご飯をそえてそのおかずみたいにいただく。
空港の食堂なので、たぶん最大公約数的なそこそこの味だと思うが、私はおいしくいただいた。
次の機会があれば、本格的にこてこてな徳島ラーメンを体験してみたいと思う。

というようなわけで、徳島は朗読というより、食事と観光がかなりのウェイトを占めたツアーだったが、それもこれもたるとさん夫妻の心をくだいた歓待によるものだ。
あらためて感謝したい。
私にできるお返しは、徳島に自由で楽しい朗読の芽が育ち、その輪が広がっていくことを今後もお手伝いすることだ。
たるとさん、げろきょの徳島支部長として、ぜひとも今後ともよろしくお願いしますよ。
そしてまたげろきょメンバーが遊びに行き、徳島メンバーと盛大に朗読パーティーを開けるときが来ることを、楽しみにしてます。
(演出・水城ゆう)

げろきょ徳島ツアーレポート(初日)


2012年7月15日。
現代朗読協会は徳島市での特別ワークショップをおこなうべく、東京から徳島に向かった。

午前8時すぎ、羽田空港集合。
メンバーは野々宮卯妙、なお、そしてきゃたおかだが、きゃたおかさんは一便先に徳島入りしている。

いざ3人でANA便に乗りこみ、徳島に向かうも、旅情もなにもなく、ひと眠りどころかサービスされた飲み物をあわただしく飲んだらもう徳島空港に向けて降下を始めていた。
近い、近すぎる。

空港ではロビーに先着していたきゃたおかさんと、徳島のげろきょメンバーのたるとさんが出迎えてくれた。
たるとさんとはもう3、4年くらいの付き合いになるのだが、ネット経由ではなく実際に生身で会うのはなんとこれが初めて。
もちろん、初めて会った気はしないのだが。

たるとさんのご主人が車を出してくれていて、ご主人の運転で徳島市内へと向かう。
広々とした海の風景、川、なだらかな山と緑、そして芋畑、蓮畑、梨園などの風景がとても気持ちいい。
住宅も密集していなくて、落ち着いた雰囲気だ。
いっそここに住みたい、と思えるほど、私の肌に合う感じを受けた。

私もなおさんもきゃたおかさんも、初徳島だ。
たるとさんが気をきかせて、観光地へと案内してくれた。
四国お遍路の一番札所のお寺だ。
立派なお寺で、お遍路さんや観光客がたくさんいた。
境内をめぐり、お土産物屋などをのぞく。
なにもかも初めて見るものばかりで、おもしろかった。

ちょうど昼の時間が近づいてきたので、うどんを食べに行くことになった。
うどんで有名な讃岐は阿波の隣なので、阿波にもおいしいうどん屋があるそうだ。
しかし、地元の人でなければなかなかなそういう情報は得にくい。
案内してもらったのは〈丸池製麺〉という、地元の人が来る、ちょっとディープな感じのうどん屋だった。

讃岐うどんは最近、東京でもいろいろ食べさせるところができていて、私もいくらか食べている。
しかし、本場で食べるうどんには驚いた。
東京のうどん屋には、
「ここがあればもう讃岐まで行かなくていい」
みたいなことをうたっている本格讃岐うどんと称する店が多いが、残念ながらそんなことはない。
やはり讃岐や阿波まで来なければ、この味はない。

うどんは基本的に柔らかい。
柔らかいうどんを敬遠する自称「通」がいるが、そういう人はおいしいやわらかうどんを食べたことがないのだろう。
実際に食べてみると、やたら珍重される「コシがある」という形容ではなく、あえていえば「もちもちしている」という形容があてはまる。
とにかくうまい。
食感も味も香りも絶品だ。
釜揚げしたものをすだちと醤油だけでいただくのがもっともよい。
次に、玉子と醤油をかき混ぜていただくのもよい。
とにかくあっという間にふた玉、いただきました。
ごちそうさま!

徳島市内は川が多い。
橋がたくさんかかっていて、その風景も気持ちいい。
海べりまでわざわざ遠回りしてあたらしい大きな橋を渡ってくれたり、眉山をぐるりと回ってながめたりしながら、市街地へ。

ワークショップ会場の〈仏壇のもり〉に到着。
大きな仏壇屋で、フロアの上階を文化的な行事のために無料で開放している、非常に太っ腹な店だ。
こういういわば「旦那衆」が地方文化を支えているのだが、このような伝統は日本のあちこちからなくなりつつある。

会場は会議などにも使える広いフロアで、椅子を楕円形に配置してもらって準備。
たるとさんと組んで朗読と音楽のコラボをおこなっているギターの福井さんが、音響装置の準備をしてくれていた。
私はこの日、夏風邪で喉をやられて朝から声が出なかったのだ。
朝、起きて、どうしようかと思ったのだが、なおさんが持ってきてくれた「特効薬」の発酵飲料がとても効いたのと、うどんで元気になって、会場に着くころにはだいぶ回復していた。
それでも大きな声で話しつづけるのはつらく、福井さんがマイクを用意してくれて大変助かった。

午後1時から現代朗読特別ワークショップ徳島編がスタート。
参加者は20名くらい。
まったく朗読の経験がない人もいれば、長く朗読をやっていた人もいるし、芝居や音楽をやっている人もいる。
経験度はまちまちだ。
しかしいずれにしても、現代朗読という考えに触れるのはどの人も初めてのようで、ワークが進めにつれ新鮮な反応が返ってきて、私も大変やりがいがあった。

途中の休憩では、参加者の方がわざわざ作ってきてくれた「そば米汁」という徳島の家庭料理をみんなでいただく。
初めていただくものだったが、大変おいしうございました。

現代朗読についての講義、そしてエチュード、呼吸法や発声、そして最後は4つのグループに分かれてもらって実際に群読作品を自分たちで工夫して作ってもらい、発表してもらった。

全グループがおなじ作品「羅生門」の冒頭を使ったのだが、それぞれまったく違う表現にしあがっていて楽しかった。
そして参加者の皆さんもそれぞれ楽しんでくれたようだった。
最後にひとりひとりのお声を聴かせていただいて、私はこの上ない幸せな気分を味わっていた。

徳島の人たちはオープンで、ものおじせず、反応もよく、自由な表現を楽しむ柔軟なマインドを持っておられるようだった。
これを機に、現代朗読の自由で柔軟な活動が始まってくれると、私としては最高のよろこびだ。

午後4時半くらいに修了。
後片付けをしてから、夕食に連れていってもらった店ではおいしいお刺身をいただく。
とくにハモと、ヨコと呼ばれるマグロの小ぶりのやつの刺身が、徳島ではおすすめだった。

夜は、ワークショップにもマスターとママと息子さんの3人が参加してくれた〈豆の木〉というカフェに行き、朗読ライブを楽しむ。
ここではたるとさんが月に1回くらい、朗読と音楽のライブをやっていて、少しずつ自由で気楽な朗読の輪が広がりつつあるとのこと。
この場を中心に現代朗読の輪も広がっていってくれるとうれしいな。

京都や赤穂(以前東京の講座にも参加してくれたさくらさん)から来られた方も地元の人たちに加わって、自由な朗読ライブパーティーとなる。
私はキーボードを弾かせてもらった。
いろいろな朗読が飛びだし、楽しかった。
そして念願の、たるとさんを交えたげろきょメンバーとの朗読パフォーマンス。
これをやるために私はここに来たといってもいいほどだ。
本当に実現できてうれしかった。

午後9時半くらいに解散。
またたるとさん夫妻に車でホテルまで送ってもらって、徳島の初日は終わったのだった。
(2日めにつづく/演出・水城ゆう)

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   「蛍」

 日が暮れるのを待ちわびて、ぼくらは夜の道に出た。
 ぼくらというのは、小学校にあがったばかりの四歳下の妹とぼく、そして父と母の四人のことだ。
 夕方にさっと通りすぎた通り雨のにおいが夏の強い日射しの名残を残した地面から立ちのぼり、それがこれから行こうとしている水場のことを予感させて、ぼくと妹は興奮ぎみだった。
 ぼくは竹箒、妹はうちわを持っている。これで蛍をとろうというのだ。
 父が数年前、市街地の一番はずれに新築した家は、国道を越えると繊維工場と田んぼしかなかった。しかし、そろそろ国道の向こう側にも田んぼを造成して家が建ちはじめていた。
 ぼくが小学校にあがったばかりのころは、まだ田んぼに「肥《こやし》」をまいている光景が見られたものだったが、このごろは太いホースのような長い袋を田んぼの上にわたして、ふたりがかりで白い農薬をまいている光景に変わっていた。それにともなって、学校帰りによく用水路にはいりこんでカワニナを採っていた遊びも、カワニナそのものがいなくなってしまってやらなくなっていた。もっとも、高学年になるとそんな子どもっぽい遊びはやらなくてもいいと思っていた。
 家の庭に面した縁側にすわっていると、蛍が池の上をちょくちょく横切ったものだが、最近ではそんな光景も見られなくなってしまった。市街地やその近くにはもう蛍は来なくなってしまったのだった。
 でも、山際の、山間部の水門から直接引いてきている用水路のあたりには、蛍がたくさんいることをぼくは知っていた。
 国道を渡って、まだ家もまばらな田んぼ道を歩いて、山際のほうに向かう。明かりがだんだん少なくなってきて、山裾の用水路に近づいたころにはほとんど真っ暗で、道路と田んぼの境界すらわかりにくいほどだ。
「田んぼに落ちないように気をつけろよ」
 父が注意をうながす。
 夜空を見上げると、満天の星。目をこらすと白鳥座のあたりに天の川が見えた。
 流れ星が見られるといいのに、とぼくは思ったけれど、それはかなえられなかった。ペルセウス座流星群の時期にはまだ早かった。
 目的地である山際の用水路のところまでやってきた。
 待つまでもなく、ぼくたちはすでに蛍の光のまっただなかにいた。たくさんの青白い光が点滅をくりかえしながら、不規則な航跡を描いてぼくらを取りかこんでいる。
 そばにある用水路から水の音が聞こえている。そちらのほうから無数の光が沸きあがってくる。羽化したばかりの蛍が乱舞しているのだ。
 ぼくは竹箒をふるって光をからめとり、つかまえた蛍を虫かごにそっと入れた。何匹も入れた。妹もうちわで払い落とした蛍をつかまえて、虫かごに入れた。
 そうやって十数匹の蛍をつかまえたぼくたちは、また真っ暗な道を引き返して家にもどった。
 その夜、ぼくと妹は、蛍を入れた虫かごを枕元に置いて寝た。虫かごにはススキの葉っぱもいっしょに入れてあり、池の水に虫かごごとつけて水滴をつけてあった。
 布団にもぐりこんで虫かごを見ると、虫かごの中で蛍が音もなく点滅を繰り返している。ぼくはそれを飽きることなく見つめていた。
 蛍の虫かごからは、すこしツンと鼻をつく、独特のにおいが流れてきた。それが蛍のにおいなのだとぼくは思った。
 光を見ているといつまでも眠れないような気がしたけれど、もちろんそんなことはなく、ぼくはいつの間にか眠ってしまっていた。
 朝、目覚めると、明るい日差しのなかで、蛍は黒い炭のかけらのように、ススキの葉っぱのあいだにわずかに確認できるくらいだった。
 その虫かごをそのあとどうしたのかは、結局思いだすことはできない。

朗読会「槐多朗読」レポート

2011年11月28日夜。明大前キッド・アイラック・ホール地下のブックカフェ〈槐多〉で、朗読会「槐多朗読」がおこなわれました。
ここはホールのオーナーのこだわりの蔵書が興味深いブックカフェで、天井が高く、村山槐多の絵も飾られていて、とてもおもしろい空間です。
客席は20席。カウンター席とテーブル席があります。そのうち2席を私が演奏機材のためにつぶしたので、定員18名。
1か月くらい前に告知を始めたときは、お客さんが全然集まらずどうなることかと心配だったんですが、最終的には満席となりました。それどころか、予約をいただいてなかった人が3名くらいいらして、臨時の椅子を出したりしてかなりぎゅうぎゅうな感じのなかでライブがスタートしました。

参加費がワンドリンク付きという設定だったので、ドリンクサービスが開始時間までに間に合わず、半分くらいの方はドリンクなしでスタートすることになりました。なので、中間のトークのときに、たっぷり時間をとって、全員にドリンクが行き渡るのを待ちました。しゃべることがなくなって困ったけれど。
次にやるときは、ドリンクサービスの時間を入れこんだプログラムを作っておくといいかもしれません。

前半は村山槐多の童話というか、奇妙な短編5連作を集めた「五つの童話」というテキスト。
朗読の野々宮卯妙は入口の正反対の一番奥の本棚前に陣取ってます。私は入口脇の、カウンターの一番手前の部分にキーボードを置いて立ってます。
ピアノがないので、楽器は持ちこみました。いつものKORGの61鍵のシンセと、MacBookAir、ミキサー、そしてBOSSのモバイルスピーカー。ひとりで持っていくにはけっこうな荷物です。これを羽根木から明大前までえっちらおっちら歩いて運んだのはかなりきつかったんですが、それよりきつかったのは、入り時間が開演40分前というあまり余裕がない時間になってしまったことです。
行ったらいつもの早川さんが不在で、初対面の海野さんが対応してくれました。コンセントはどこだ、スピーカーはどこに置いたらいい? キーボードはカウンターの上に置いてもいい? ならんでいた瓶類を片付けてもらったり、使わないケースや鞄を片付けたりしていたら、もうお客さんが来てしまいました。開演まで30分を切っていました。
初めての場所では音響がわからないのと、ピアノではなく電子楽器オンリーだったので、じっくりと音出しをしたかったんですが、それもままならず、お客さんもどんどん入ってきて、あっという間に開演時間をすぎてしまいました。
心の余裕がまったくないまま、スタート。私にはとても珍しいことです。自分のニーズを大切にしないとこういう目にあいます。それはお客さんに対しても申し訳ないことです。
が、野々宮はいつものように軽快に読みはじめたので、私は半分も集中できていなかったんですが、お客さんは朗読に集中してくれているようでした。

もうひとつ、私には集中できない原因がありました。
それは〈槐多〉のダクトの音でした。空調も換気扇も切ってもらったんですが、ホール全体の空調の音がダクトからどうしても聞こえてきて、それがかなり気になったのです。後半は「沈黙の朗読」のシリーズとして構成したテキストでしたが、静穏な環境とはいえなかったことが気になりました。
とはいえ、こういう環境的な制約はよくあることです。そもそもピアノがないということも、私には大きな制約です。こういった逆風にどのように対処していくのか、今後の課題ですね。

後半は「沈黙の朗読」シリーズのひとつと自分では考えている「金色と紫色との循環せる眼」という、槐多のテキストを構成し、私のオリジナルテキストも混ぜた作品です。
後半はだいぶ私も集中できるようになってきていて、しかし音響感覚はまったく不安で、ダクトの音も気になって完全な集中というわけにはいかなかったんですが、最後はお客さんとなにかを共有できた感覚がありました。
おいでいただいた皆さんには心から感謝します。

「沈黙の朗読」の後はいつもそうなるんですが、なんだか呆然としてだれも言葉も出ないような、脳みその言語領域ではなくもっと深いところ、身体につながっているところでなにかがうごめいているような感覚になったんじゃないかと思います。
しかし、何分後かには皆さんも言語領域にもどってきて、楽しいおしゃべり。
開演時には戻ってきた早川さんも「よかった」といってくれ、たちまち第2回の「槐多朗読」が決まりました。
2012年2月20日、なんと村山槐多の命日だというその日にやります。今回のようなことがありますので、みなさん、どうぞ予約はお早めにお願いします。18名限定です。
次回は私も余裕をもって準備して、マインドフルに臨みたいと思います。どうぞお楽しみに。
(水城ゆう)

現代朗読協会が新宿ピットインに登場した日

少し前のことになります。8月30日、火曜日。
以前から告知していたように、フリージャズピアノの第一人者である板倉克行さんのライブに、げろきょがゲスト出演してきました。
会場は日本のジャズシーンのメッカといっても過言ではない、新宿ピットイン。
私も何度か行ったことがあるはずなんですが、30日はまったく新鮮な気持ちで行ったせいか、まるで初めて来たライブハウスのように感じました。壁にはマイルス・デイビスやコルトレーンやエルビス・ジョーンズの写真パネルが、サイン入り(!)で貼られています。すごーい。

出演者は板倉さんのほかに、ベースふたり、タップダンサーひとり、サックスひとり、フルートひとり、ヴォイスひとり、という変則。
そこへ朗読がふたり、野々宮卯妙と照井数男。
私は当初、小型シンセを持っていこうと思っていたのだが、小型とはいえけっこう機材が重いので、簡易キーボードに持ちなおそうとして、さらに考え直した。こんなちゃちな機材で勝負できるわけがない。どうせちゃちなものを使うなら、身体で勝負できるものにしよう。
というわけで、ピアニカ一本ぶらさげていくことした。

7時半、開場。お客さんがパラパラと入ってくる。でもがら空き。そして半分くらいはげろきょ関係者。みんなありがと〜。
しかし、始まってみてわかったのだが、これだけのすんごいスリリングなセッションを、これだけの数の人しか目撃できなかったなんて、なんて贅沢というかもったいないというか。ま、しかし、商業システムや大衆はこれだけ鋭くとんがった先端表現を、もはや必要としていないんだろうな、という実感。
でも、私は必要としている。必要としている人が、少ないけれどいる。そしてここから次の時代が始まる。

セッションは板倉さんが出演者を次々と指名する形で、
「まるで学校みたいだな」
と、板倉さんも笑っていたが、まったくなにも決めごとのないフリーセッションが、次々と展開していく。
板倉さんが私にピアノをゆずってくれ、2曲、セッションに参加できた。そして、最後はピアニカで参戦。これが意外にも好評で、板倉さんも大変おもしろがってくれて、よかった。私も楽しかった。
そして野々宮はもちろん、照井数男もがんばってくれ、われわれげろきょが日本の第一線のフリーミュージシャンと張り合って一歩もひけを取らないパフォーマンスを展開できることが照明される現場を、私は目撃していた。
(水城・筆)

現代朗読協会が新宿ピットインに登場した日

少し前のことになります。8月30日、火曜日。
以前から告知していたように、フリージャズピアノの第一人者である板倉克行さんのライブに、げろきょがゲスト出演してきました。
会場は日本のジャズシーンのメッカといっても過言ではない、新宿ピットイン。
私も何度か行ったことがあるはずなんですが、30日はまったく新鮮な気持ちで行ったせいか、まるで初めて来たライブハウスのように感じました。壁にはマイルス・デイビスやコルトレーンやエルビス・ジョーンズの写真パネルが、サイン入り(!)で貼られています。すごーい。

出演者は板倉さんのほかに、ベースふたり、タップダンサーひとり、サックスひとり、フルートひとり、ヴォイスひとり、という変則。
そこへ朗読がふたり、野々宮卯妙と照井数男。
私は当初、小型シンセを持っていこうと思っていたのだが、小型とはいえけっこう機材が重いので、簡易キーボードに持ちなおそうとして、さらに考え直した。こんなちゃちな機材で勝負できるわけがない。どうせちゃちなものを使うなら、身体で勝負できるものにしよう。
というわけで、ピアニカ一本ぶらさげていくことした。

7時半、開場。お客さんがパラパラと入ってくる。でもがら空き。そして半分くらいはげろきょ関係者。みんなありがと〜。
しかし、始まってみてわかったのだが、これだけのすんごいスリリングなセッションを、これだけの数の人しか目撃できなかったなんて、なんて贅沢というかもったいないというか。ま、しかし、商業システムや大衆はこれだけ鋭くとんがった先端表現を、もはや必要としていないんだろうな、という実感。
でも、私は必要としている。必要としている人が、少ないけれどいる。そしてここから次の時代が始まる。

セッションは板倉さんが出演者を次々と指名する形で、
「まるで学校みたいだな」
と、板倉さんも笑っていたが、まったくなにも決めごとのないフリーセッションが、次々と展開していく。
板倉さんが私にピアノをゆずってくれ、2曲、セッションに参加できた。そして、最後はピアニカで参戦。これが意外にも好評で、板倉さんも大変おもしろがってくれて、よかった。私も楽しかった。
そして野々宮はもちろん、照井数男もがんばってくれ、われわれげろきょが日本の第一線のフリーミュージシャンと張り合って一歩もひけを取らないパフォーマンスを展開できることが照明される現場を、私は目撃していた。
(水城・筆)

ラジオを聴きながら

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Authorized by the author

   「ラジオを聴きながら」

 ラジオを聴きながら、私の主人は手紙を書いている。私はそれを、いつものように窓枠の上に身体を丸めて見ている。
 アナログ放送終了とかを機に、主人はテレビを見るのをやめた。かわりにいつもラジオがついている。必要があればケータイの地デジがあるからいいのだと、彼女はいう。たしかにそうだろう。私は前から、にんげんがなぜあのような箱に映る、うるさく動く絵を熱心に見るのか、よくわからなかった。テレビを見るのをやめた主人は、すこし猫にちかづいたような気がして、私はうれしい。
 手紙を書きながら、私の主人はまた泣いている。
 回収業者がテレビを運びだしていったとき、主人はほっとしたような顔をした。彼女がテレビを憎んでいるのを私は知っていた。テレビはあの日以来、何度も海が押し寄せるのを映し出し、いまになっても隙をみてその映像を流そうとする。
 彼はあの海のむこうに消えた。その海は私の生まれた場所だ。
 われわれはだれかが先にいっても泣いたりはしない。その時が必ずやってくることは知っているし、泣いてもその事実が変わるわけではないことを知っているからだ。私にもその時は必ずやってくる。ほぼ間違いなく、私は主人より先にあちらに行くだろう。
 私がいなくなったら主人はまた泣くだろうか。たぶん泣くのだろう。にんげんは猫よりずっと長く生きるせいで、死に対しておろかになりすぎている。死が遠くにあるせいで、死がどういうものなのかわからなくなっている。
 私がここに、この主人の家にやってくる前は、あの海の街で生まれ、しばらく暮らした。彼が私を主人に引きあわせ、ここにやってきた。
 彼は海の仕事をしていて、家は海べりにあった。その家のことはいまでもよく覚えている。古い家で、建ってからもう七十年もたっているという。その家が建つ前はそのあたりにはなにもなかったのだとも。そのあたりにはただ海岸があり、波が打ちよせ、風が吹きつけるだけだった。
 いまでも波は打ちよせ、風が吹きつけているだろう。カモメが風に逆らって長く伸ばした羽をひらひらさせながら、細長い声をあげているだろう。浜昼顔や月見草が風になびき、アブが羽音を立てて飛んでいるだろう。水平線の向こうからやってきた雲は、ゆっくりと近づき、やがて山の向こうに流れていくだろう。
 日が沈み、星が出るだろう。ペルセウス座の方角に流れ星が生まれ、そしてまたすぐに消えていくだろう。
 彼の生も死も、私の生も死も、主人の生も死も、みなおなじことなのだ。それは海と風と星のなかにある。
 そんなこともわからない主人は、届かない彼への手紙を書きながら、涙を流している。私はただそんな彼女をだまって見つめている。
 ラジオからは聴いたことのない音楽が、この部屋と世界をつなぐゆりかごのように、静かに流れてくる。

「KOTOHOGU! 〜言祝ぐ東北」で言祝いできた

(レポート by 水城ゆう)
昨夜は武蔵小山のライブカフェ〈アゲイン〉での朗読ライブ「言祝ぐ東北」に行ってきた。
主催はげろきょの仲間・唐ひづる。ゲスト朗読で野々宮卯妙も出演。私は少しだけピアノ演奏で助っ人。
しゃちほこばった堅苦しいライブではなく、お客さんに飲んだり食べたりしてもらいながら、トーク混じりの気楽なライブで、大変楽しかった。お客さんのノリもよかった。
とはいえ、しっかりとメッセージも込められていて、最後はいろいろな思いが伝わったのではないだろうか。

それにしても唐ひづるの軽妙なトークと自由自在な朗読は、本当にすばらしかった。東北弁の朗読も楽しかった。それにどちらかというと重厚な野々宮がからみ、化学反応を起こしていた。私のピアノなどまったく邪魔なくらいで、本当によい朗読は余計な音は不要なのだと実感した。
おふたりさん、お疲れさまでした。

ライブパーティー追記

昨日書いたレポートは水城の自分用セットリストを見ながら書いてたので、演目に抜けがあった。
8演目に加えて、「7.」と「8.」の間にもう一演目あったのだった。
正しくは以下のとおり。

7. 水城ゆう「初霜」
 しまだなおこ
8. 水城ゆう「青い空、白い雲」
 まぁや&瀬尾明日香
9. 夏目漱石「蛇」
 野々宮卯妙

「青い空、白い雲」はゼミ生でライブワークショップにも参加していたまぁやと瀬尾明日香によるふたり読みで、ライブ直前になって急遽やることが決まったもの。
分かち読みや同時読みで構成されたものだが、あまりガチガチには決めごとはなかったとのこと。コミュニケーションのなかでストーリーが展開していくのが気持ちよかった。部分的に「問いかけと返答」のような読み方の工夫もあった。

ライブパーティー追記

昨日書いたレポートは水城の自分用セットリストを見ながら書いてたので、演目に抜けがあった。
8演目に加えて、「7.」と「8.」の間にもう一演目あったのだった。
正しくは以下のとおり。

7. 水城ゆう「初霜」
 しまだなおこ
8. 水城ゆう「青い空、白い雲」
 まぁや&瀬尾明日香
9. 夏目漱石「蛇」
 野々宮卯妙

「青い空、白い雲」はゼミ生でライブワークショップにも参加していたまぁやと瀬尾明日香によるふたり読みで、ライブ直前になって急遽やることが決まったもの。
分かち読みや同時読みで構成されたものだが、あまりガチガチには決めごとはなかったとのこと。コミュニケーションのなかでストーリーが展開していくのが気持ちよかった。部分的に「問いかけと返答」のような読み方の工夫もあった。

感動の羽根木朗読ライブパーティー

昨日7月9日(土)の午後3時から、羽根木の家で朗読ライブパーティーをおこなった。
「朗読はライブだ!」ワークショップ参加の4名を中心に、ほかにもゼミ生など何人かに参加してもらって、お座敷ライブを開催した。

まずびっくりしたのは、3時から始まって、終わったのは5時だった。たっぷり2時間、やっていた。
そして、暑かった。気温は35度を超えていた。羽根木の家にはエアコンなどもちろんない。

そんな条件のなか、お客さんと出演者が一体となり、2時間という時間をまったく感じないほどお互いに集中して、数々の演目が上演された。
終わってからも、さまざまな感想をいただいた。
音楽ライブや芝居をたくさん観に行っている人たちから、ダントツにおもしろかった、すばらしかったという感想をいただいた。今日になってもまだ感動が続いている、という話をゼミ生からも聞いた。
私はずっとピアノに張りついて、いわば出ずっぱりの状態だったのだが、まったく苦にならなかった。楽しくてしかたがなかった。

昨日の演目を書いておく。

1. 夏目漱石「夢十夜」より「第三夜」の群読パフォーマンス
山田正美、まぁや、瀬尾明日香、玻瑠あつこ
2. 菊池寛「形」
瀬尾明日香
3. 宮澤賢治「いちょうの実」
山田みぞれ
4. 水城ゆう「階段」
玻瑠あつこ
5. 怪談「皿屋敷」
まぁや
6. 太宰治「女生徒」より
嶋村美希子、照井数男
7. 水城ゆう「初霜」
しまだなおこ
8. 夏目漱石「蛇」
野々宮卯妙

「1.」は大変息の合った、すぐれたパフォーマンスだった。私からも再演希望。
「2.」はテキストを読んでもらえばわかると思うが、人の「形」が相手にどのような影響を与えるのかを書いた時代もの。それを瀬尾ちゃんがファンシーなワンピースを着て読み、途中でそれを脱いでお客さんに「形」とは何か、という命題を付きつける斬新な二重構造のパフォーマンスで表現。
「3.」は今回のワークショップが初朗読のみぞれさんが、なにも飾らない、なにもたくらまない、無垢な朗読で全員を魅了した。
「4.」は大阪弁をところどころで交えたり、別の出演者をからませたり、小道具にクイックルワイパーを使ったりと、アイディアいっぱい、動きいっぱいの「楽しい怪談」となった。
「5.」は定番の古い怪談を、なんとゴスロリファッションで決めたまぁやが、これもまぁやからのリクエストで音楽もゴシック調のオルガンサウンドで付けて、日本ではなく西洋風のテイストで上演して、斬新きわまりなかった。
「6.」は若手ふたりによる、もはやユニットとして(くやしいけれど)息の合った観のあるパフォーマンスを、照井くんによれば「いいふうにでたらめにやれた」という目の離せないスリリングに見せてくれた。
「7.」は14歳の少女の思春期の複雑な心情を描いた作品だが、中学生の娘さんの制服をこっそり借りだしてきて着込んだなおさんが、動きまわるほどに時間をさかのぼって14歳にタイムスリップし、思春期の心情を吐露する朗読を痛々しく表現してくれたのがすばらしかった。
「8.」はバロック朗読第一人者が重厚に歪んだ朗読をスタートしたと思いきや、途中から自由自在にピアノとのガチンコセッションを繰り広げ、その実力を存分に見てつけてくれた最高クオリティのパフォーマンスであった。

残念ながら、ビデオカメラの不調で、その記録は残っていない。
来場いただいた方の目には焼きついていることだろう。ライブとはそういうものだ。
これらの演目は、もう少し観客にとってよい条件で再演できないか、と思っている。現時点で、私と出演のみんなとこの日の観客による、最高傑作だからだ。
(演出:水城ゆう)

夏うふ&読んで歌うコンサート@さいたまが終了

昨日、埼玉新都心にある埼玉県障害者交流センターのホールで、「読んで歌うコンサート」をおこなってきました。
現代朗読協会のゼミ生でもある「浦和区市民活動ネットワーク公認団体・アーツ&ケア・コミュニティ」の日榮さんの主催で、私と伊藤さやかによる音楽ユニットOeufs(うふ)と、現代朗読協会の野々宮卯妙、照井数男とで、歌と朗読のコンサートをおこないました。

30人くらいの方がいらしてくれて、皆さん、熱心に最後までお付き合いくださいました。
途中、宮澤賢治の「双子の星」の朗読パフォーマンスもおこなったんですが、20分以上のかなり長い演目にも関わらず、最後までしっかりと聴いていただきました。
小さなお子さん連れのお母さんがたもいらっしゃいました。
終わってから、抱きつかんばかりにして握手を求めてこられたお年寄りもいらして、私も大変楽しかったです。

繭世界

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   「繭世界」

指先からつむがれた透明な音が長     私は生まれつつあった。
い尾を引いてからたちの刺にから     同時に死につつあった。
みつき真っ青な空の雲を誘惑する
梅雨が明けたばかりの夏の繭。き     世界は開かれつつあった。
らりと眼のすみを横切るのは塩辛     同時に閉じられつつあった。
蜻蛉か青条揚羽かふと顔を向ける
と自転車がもんどり打って倒れよ     闇に光が射しこみつつあった。
うとしていた繭。幾重にも連なっ     同時に闇に閉ざされつつあった。
ていつまでも打ち寄せてくる波の
向こうに見えるのは外洋航路に向
かうコンテナ船の色とりどりの繭。    我々は時間の軸を直線的に生きる
あなたは眼を閉じ身体を丸め折り     わけではない。
曲げた脚を両手で抱えるようにし     時間はからまりあった糸のように
ている。あなたが目覚めているの     もつれ行きつ戻りつしている。
か眠っているのかはあなた自身に     昨日は今日であり、今日は昨日で
すらわからない。閉じた眼の奥で     もある。
線香のようにイメージが交錯する。    昨日の出来事はまだ起こっていな
濡れたアスファルトの上をどこま     いことでもあり、明日の出来事は
でもつづいて伸びる烏の切断され     すでに起こっていることでもある。
た首から流れ落ちた赤い繭。これ
は考えているのか、それとも夢見
ているのか、あるいは幻覚なのか。
あなたは自分が何者なのかは知ら
ないが、ここに来る前にいた場所     津波は来たのかもしれないし、ま
のことはぼんやりと思い浮かべる     だ来ていないのかもしれない。
ことができる。青い海。青い空。     これから来るのかもしれないし、
打ち寄せる波。海岸線を不規則に     すでに来てしまったのかもしれな
区切る岩山の上には沖からの強い     い。
風で斜めにかしいで生えている細
長い松の木が何本か見えている。
波打ち際を歩いていたような気が
する。貝殻を拾い集めていたよう
な気がする。巻貝のからっぽの口     からまりあった糸が作る境界で、
を耳に押し当ててみたような気が     死者と生者が交錯する。
する。あなたは海が好きだったよ
うな気がする。しかしあなたが生
まれたのは海の見えない土地で、
いつも四方を山に囲まれたくぼん
だ場所だったような気がする。太     これは幻視なのか、それとも現実
陽は東にそびえる山脈の高い位置     なのか。
から遅くのぼり、西にも連なる山
々の高い場所に早く沈んだ。夏で
も一日は短く、そのくせ風も吹か
ずやたらと暑い土地だった。海の
近くに住んでみて、太陽が出てい     すべてが不確実なことをだれもが
る時間が長いにもかかわらずいつ     知っている。
も風が吹いて涼しく、見晴らしが
よいことにおどろいた。空がこん
なに広い場所があるということを
あなは知って驚いた。あなたはこ
の地に住むことを決めたような気
がする。それを後悔してはいない。
あなたは自分が何者でどこから来
たのか、どこへ行こうとしている
のかもわからない。そもそもどこ
かへ行く必要があるのだろうか。
あなたはいつからこの繭のなかに     どこかでだれかかが繭をつむいで
いるのかもわからない。だれかに     いる。
試されているのか。だれかに観察
されているのか。だれかに飼われ     我々は時間軸の糸によって繭のな
ているのか。そもそも人間なんて     かにからみとられていく。
そのようなものでどちらでもかま     いまはまだ蛹ですらない未熟で愚
わない。ふいにはっきりした思考     かな存在だ。
があなたの前頭葉に浮かぶ。同時 
に、ここへ来る前にあなたが見て
いたことを思い出したような気が     我々愚かな芋虫がこざかしい知恵
する。赤い血で染められたアスフ     を振りかざし、あたりをいくばく
ァルトがでたらめなダンスを踊り     か汚したところで、繭をつむぐ者
烏の首をはねた電線が喉を病んだ     がなにを気にするというのか。
テノール歌手のように歌っていた。
四角い木綿豆腐が腐って爆発し腐
臭をあたりにまき散らしていた。
溶岩のように熱く重い水に巻かれ
ながらあなたはそれを見ていたよ
うな気がする。水は時間そのもの
でありあなたはそれにからめとら
れてこの繭のなかへとやってきた。
もはや生きているのかも死んでい     もう眠ろう。
るのかもわからないしそんなこと     眠ってしまおう。
はどちらでもかまわない。ただい
まはもう時間のなか深いどろどろ     暖かな繭の奥深くで、どろどろの
の眠りへともぐり降りていくばか     液体に満たされた蛹になってしま
りだ。あなたのなかからなにか生     おう。     
まれてくるかどうかはだれもわか     
らないしそこにはもちろんあなた     生まれつつあると同時に、死にゆ
はもういない。             く存在になろう。
                              (おわり)

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