全身が読むことに恊働したとき朗読表現は飛躍する

人が生きて表現することのクオリティを保証するものはなんだろう。
たとえば私たちだれもがやっている「歩く」という行為。

私たちはぶらぶら歩いたり、あるいはどこかに行くために急いで歩いたりするとき、その全身運動にたいしてほとんど意識していない。
なにかかんがえごとをしていたり、スマホをいじっていたり、きょろきょろしていたり、その間、自分の身体があることをすっかり忘れている。

それでもちゃんと歩けるのだから、身体はえらい。
運動機能をつかさどっている小脳や神経組織が、複雑なコントロールと情報収集、情報交換をすばやく、超並行処理でおこなってくれているおかげだ。
大脳はほとんどそのことを意識せずにほかのことをしていられる。
しかし、いったん「歩く」ということを意識したとき、人はどうなるだろうか。

よほど訓練された人でなければ、歩くことを意識し、意識的に歩こうとした瞬間、とたんにぎくしゃくと不自然な動きになるだろう。
たとえばあなたが大勢の観客のいるステージの上にあがって、ステージの端から端まで歩いてみせる、ということを想像してみたらいい。
ほとんどどうやって歩いていいかわからないくらい、ぎこちない運動になるだろう。
しかし、役者やダンサーやステージ慣れしている人は、ふだんのように、あるいは「歩くことを見せるための表現のクオリティとして」歩くことができる。
これはどうやっているのだろう。

いうまでもなく、歩くという運動にたいしてすみずみまで意識が行きとどき、自分がなにをどうやっているのかきちんと体認できているから、そうできるのだ。
しかし、それをコントロールしようという大脳皮質の傲慢さを許さないほうがいい。
それについては長くなるのでここでは書かないが、とにかく自分の身体がおこなっていることをただ見る、知る、意識する、任せる、邪魔しない、ということができるかどうかが問題だ。

朗読もそうだ。
朗読という表現行為はことばを発する。
口まわりや口中の筋肉・神経を精妙に使い、複雑な発音をしている。
どうじに声帯をふるわせ、呼吸を使い、姿勢も変化している。
そのような複雑で精妙な「運動」について、朗読者がどこまで体認できているか。
さらにいえば、読むという朗読行為に全身くまなく協力して参加し、最高のクオリティを発揮することにたいして、自分自身が邪魔をし損なっていないか。

自分の全体を緻密に体認し、声を発する、ものを読むという行為に全身を恊働させられるかどうか。
ここへの意識と方法を練っていくことで、朗読表現のクオリティは飛躍的に高まっていくことがわかっている。
この方法を伝える現代朗読の体験講座が、明日9月21日(土)14時から開催される。
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