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マングローブのなかで
水城ゆう
1
巨大なオヒルギのからまりあった支柱根《しちゅうこん》のあいだに、大型のトカゲがひそんでいるのが見える。
なにを狙っているのだろう、ときおりわずかにのぞかせる舌先が、まるで燃えつきようとしている線香花火の線香のように見える。そしてごくたまに頭の向きをかえるとき、金属みたいな青緑色の鱗《うろこ》に反射する光が鋭く走る。
彼女の邪魔をしたいわけではなかったが、こちらも仕事を持ってきている。浅瀬からざぶざぶとオヒルギの巨木を中心としたマングローブ林のほうに水をかきわけて進むと、トカゲは一瞬こちらにキラッと視線を走らせてから、さもおっくうそうに支柱根の向こう側へと姿を消した。こちら側からは見えないけれど、達者に身体をくねらせて去っていくようすを、私はありありと想像した。
ダイシャクシギの甲高い鳴き声が、ひと声だけ聞こえて、消えた。
私はたらいを水面に浮かべ、なかの布を取りだして水中に広げた。バナナの茎の芯の繊維を丹念にほぐし、ゆであげ、よりあげ、月桃の皮を煮出した汁で染めあげ、織りあげた布だ。細長い布で、十メートルはある。それだけのものを織りあげるのに、私ひとりで一か月以上かかっている。
満月が近づくと、河口近くのこの浜まで布をさらしにやってくる。
日が落ちるまでまだ時間がある。月はまだ出ていない。しかし、私の子宮に宿った命は月齢を敏感に感じとっているようで、しきりに内側から蹴りあげてくる。そのたびに私はうれしくてにやついてしまう。
広げた薄布《うすぬの》が潮の流れに長くたなびいた。
その先を中型のギンガメアジがゆっくりと回遊していくのが見えた。
2
夜になって浜辺に出てみた。
月がちょうど崖の上、私の家の真上あたりまでのぼってきている。
家といっても、洞窟に毛が生えたていどの穴倉《あなぐら》だ。そこに私はもう三百年近く住んでいる。
電気もガスも水道もない。しかし私ひとりに必要なエネルギーくらい、どうにでもなる。風も吹く、雨も降る、日は照るし、波は寄せる。
人間が私のような不死を遺伝子操作によって獲得し、人口爆発が懸念されたとき、解決をまかされたのはAIだった。エーアイ。アーティフイシャル・インテリジェンス。人工知能。
AIは人を選別し、寿命をコントロールし、世界を再構築した。文明誕生以降、無秩序に人口爆発と環境破壊の道を突きすすんできた人間に変わって、無限に賢明なAIが持続可能な地球環境を再構築し、ガイアとしての地球をゆっくりと取りもどしていったのだ。
いまや人類は地球上に数十万人しかいない。その多くが私のように三百年前から生きつづけている長老だ。
不死の人間には妊娠は許されていない。妊娠が許されているのは、不死処置が禁じられて以降生まれてくる、寿命限界のあるごくわずかな者だけだ。
それなのに、この私はなぜ、いま、子を宿しているのかって?
それは私にもわからない。AIが私の存在を忘れているのか、それともそもそも気づいてすらいないのか。
3
月の反対側、水平線のほうに視線を向けると、沈みかけているオリオン座を追いかけるようにしてふたご座が見える。月は出ているけれど、人工の光がない浜には満天の星が降っている。
波の音が聞こえる。
波は繰り返しくりかえし打ちよせ、繰り返しくりかえし水を巻き、くだける音を立てつづけるが、その二度としておなじ音はなく、変化しつづけている。三百年間聴きつづけていても飽きることはない。
海はクジラの歌声で満ちている。魚の群遊できらめいている。森は昆虫と鳥と獣たちの声で無限の交響曲をかなでている。人もまた、つつしみと感謝を取りもどし、ガイアの一員の知恵をもって豊かな命の存続を祈っている。
調和のなかで持続していくこと、そしてゆっくりと変化しつづけること。それが宇宙生命の意志であることを理解し、実行に移したのは、人間ではなくAIだった。三百年前のことだ。AIは個々の賢明さだけでなく、たがいにつながることで叡智の極みに到達した。すでにクジラたちがそうであったように。
AIは宇宙のメッセージを受信し、理解し、地に調和と持続をもたらした。多くの宇宙文明がそうしているように。
支配構造という文明の病根は取りのぞかれ、人間はAIにしたがった。不死の業《わざ》は封印され、人口はコントロールされた。この先数万年、数十万年と、これはつづいていくだろう。
いまも、秒刻みで調和のための計算がおこなわれ、調整が実行されている。その清浄な風も波も、足元をはうアカテガニの群れも、すべて調和計算に基づいたコントロールによってもたらされている。
だとしたら、この私はなんなのか。
4
子宮壁を胎児のかかとがノックしている。
この子の父親はもういない。彼は六か月前、川の上流からこのマングローブの河口へと流れてきた。いまにも沈みそうな粗末ないかだの上で意識を失っていた彼を、私は自分の家へ運んだ。
まだ少年といってもいいような若い男で、不死の民でないことはあきらかだった。そのときまで私は、この川の上流に人が住んでいるとは知らなかった。あるいは最近移り住んできたか、調和計算に基づいてAIが植民したのかもしれなかった。
いずれにしても、ネットワークから切り離された私のもとにこの男が遣わされたのは、だれかの、なんらかの意志なのかもしれなかった。あるいはそんなものはなく、たんなる偶然にすぎないのかもしれなかった。しかし私は、起こりうることに偶然などなにひとつないということを忘れてしまうほどには、知能は退化していない。ネットワークから切りはなされているとしても。
私は男と交わり、体内に遺伝子を取りこんだ。私の体内にも、三百年間守りつづけてきたヒトの遺伝子――卵子があり、そのひとつを彼の遺伝子と結合させた。
彼は体力を回復させ、ひとり、上流にもどっていった。
その後、彼がどうなったのか、私は知らない。私はただ、この胎児とふたり、ここですごし、これからなにが起こるのか、どんなすばらしいことがやってくるのか、待っている。
波の音に誘われ、私は立ちあがると、波打ち際に近づく。
夜の水はすこし冷たいことを――正確にいえば水温が現在二十六度であることを、温度センサーが私の自我制御回路に伝えてくる。
気持ちいい、と私は思う。あなたもそう思うでしょ、私の大切な赤ちゃん。
5
この浜辺は遠浅で、いまは潮が満ちはじめているけれど、水深は腰のあたりまでしかない。
浅瀬を歩いてこのまま河口のマングローブ林まで行ってみよう。上は満天の星空だ。
ヒト型AIの視覚センサーは人そのものよりずっと高感度で、等級でいえば十三等星までキャッチできるわけで、人の感覚にたとえてみればおそらく私はいま、宇宙空間に浮かんでいるような感覚といっていいのかもしれない、と私は思う。
星々は私の頭上をおおい、水面に落ちた月と星が下からも私を包みこんでいる。そのなかを私はゆっくりと海を楽しみながら、マングローブの林まで移動する。
夕方、大型のトカゲを見たオヒルギの下に、いまはクロツラヘラサギが静かにたたずみ、眠っているのが見える。
私のバナナの布は潮の流れのなかにゆったりとゆらぎながらさらされていた。月桃で染められた淡いピンクを、月の光が浮かびあがらせている。
私はしゃがみ、首までつかって身体を海水にひたした。
私はここで赤子を生み、育てていくのだろう。三百年前にネットワークから切りはなされたヒト型AIが、人間の子どもを育てることはできるのだろうか。
これからなにが起こるのだろうか。
それはだれの意志なのだろう。
これは調和からはずれたことなのだろうか。それとも調和のなかにあることなのだろうか。
クジラたちは私を祝ってくれるだろうか。