自分の音楽、音を楽しむ

現代朗読協会を主宰している私自身は朗読しないのだが、公演やライブのときには音楽演奏で共演することが多い。
たいていはピアノを弾いたりシンセサイザー/キーボードを弾いたりする。
ピアノがなかったり、大型楽器を持ちこめなかったり、電源がなかったりするときは、鍵盤ハーモニカを吹くこともある。
いずれにしても、即興演奏で朗読と共演する。

演奏家が朗読といっしょにやるというと、ほとんどの場合「伴奏」になってしまうものだが、私は伴奏はしない。
あくまで共演者として朗読者と対等に音でコミュニケートする。
したがって、本番になるまでなにが起こるか、どんな音になるのか、まったく予想できない。

朗読と共演したあと、お客さんから訊かれて「全部即興ですよ」と答えると驚かれることが多い。
しかし事実なのだ。
楽譜に書いてあるメロディはひとつもないし、用意されたフレーズもない。
朗読者の発する声、そのリズム、音色、ときには言葉、そして観客、ライブ空間、外部から侵入してくる音、私自身の身体のなかで起こっている事件、そういったことに反応し、その場で音ができていく。

私の音はほとんどコントロールされていない。
自分の身体が「こう行きたい」という道すじをしめし、私はただその上をたどっていくだけだ。
その散歩(ときには駆け足であったり疾走であったりもする)はこの上なく楽しく、生きていることそのものであり、私がたどっている音の道すじは私の生命の発露そのものであるといっていい。

通常、音楽を学ぶ/練習するというと、ある一定の型をなぞり、繰り返し繰り返しそれを練習し、型とおりの音が出せるように反復訓練することを指す。
その方法はすでに19世紀以前のものであり、現代における音楽演奏の習得にはまったく別の方法があると私はかんがえている。
それは自分の音をさがし、自分のスタイルで演奏し、自分の生命力そのものを発露するための表現を鍛える方法だ。
従来の音楽教室や個人レッスンでおこなっている習得方法では、自分らしい、自由で豊かな生命力に満ちた演奏を身につけることはできない。

明日22日(日)は「梅ヶ丘THE生エンタ」で、明後日23日(月/秋分の日)は「沈黙の朗読」2本立て公演で、それぞれ朗読と共演することになっている。
自分のなかからどんな音が出てくるのか、共演者たちとどんな音空間を作れるのか、観客とどのようなものを共有できるのか、たぶん生まれるであろう豊かな空間と時間の体験を想像して、いまから楽しみでしかたがない。

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